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西園精神療法ゼミナール 1 精神療法入門

西園精神療法ゼミナール 1 精神療法入門 published on

芳醇の極み 静かな境地に至った長老が語る入門書

こころの科学 No.154/11-2011 ほんとの対話より

評者:神田橋條治(伊敷病院)

入門書は長老によって書かれるべきだ」が読後の感想である。多くの入門書は、ベテランあるいはベテランと自覚する人々、弟子を育てている最中の人によって書かれる。資料とされるのは、みずからの成長の経緯の記憶と、育成中の弟子の観察である。それに比して、長老の資料には、ベテランの域に成長した弟子たちの成り行きと現状観察が大きく加わる。前者は親が書いた育児書であり、長老によるそれは祖父が語る育児の知恵である。

半世紀ほど前、僕らが師事していらい今日まで、先生は一貫して治療者であり教育者である。八〇歳を超えたいまも、クリニックで主治医として診断をなさっており、往診をされることもあると聞く。加えて、併設する「心理社会的精神医学研究所」で毎水曜日夜「精神療法講座」を開かれ、すでに一一年目を迎えている。講師陣は、広義の精神療法や関連する諸分野の錚々たるメンバーが連なっている。そのなかの西園先生ご自身の担当分が、四冊組で出版されることとなり、幕開けが本書である。

「皆さんはDSMやICDなどの操作的診断をすることになると思いますが、臨床的診断をするうえで症状の把握のために、それぞれいろいろな『型』をおもちだと思います。ここでは私の『型』をお話しします。これは、私が長年の患者さんとの経験によりつくったもので『こうしなくてはいけない』というものではありませんが参考にして下さい」。この文章に続けて、①睡眠障害、②食欲、③不安の有無、④抑うつ感情と自殺念慮の有無、⑤対人関係上の苦痛、⑥精神病的考え、⑦記憶力・計算力障害の有無の項目が語られ、⑦については「身体の質問から始めて、『気持ち』『対人関係』という患者さんの主観の世界にだんだん入っていって、コミュニケーションがついた後に初めて、こうした欠陥に関することを訊ねるという配慮が必要です」と、関係づくりをなにより大切にされる先生の姿勢が説かれる。

関係が生じると臨床観察のデータが汚染されるという妄念に対抗し「関与しながらの観察」とのスローガンが言い立てられて久しい。本書を診断技術の入門書とみなし「関与あってこそ、得られる臨床観察のデータは有用であり」「援助者としての関与が生みだすデータこそ、客観的であり、真理に迫る」と、その技術を散りばめながら縦横に論じている書と読むこともできる。「援助者としての関わりの場」を極力排除したデータに基づく診断習慣、が生み出している悲惨への怒りが伝わってくる。

「私の『型』」という文章が本書の実態を示している。精神療法を手立ての一つとして、援助者としての歴史を刻んできた長老の体現しているものが「型」である。最終の拠りどころである。現在である。そこからすべては眺められる。先生は主に精神分析の世界を歩いてこられたので、記述の内容は、精神分析の歴史上の症例や理論が多くを占める。しかしいまや、それらは「到達した現在」の視点から眺められ参照される、さまざまな小話であり、長老が後進に伝えようとする意味や考えを運ぶ荷車である。意味や考えの拠りどころとはなっていない。文章の言い回しの味わいの中に、祖父の特質である「自身に拠る」爽やかさが読み取れ心地よい。

静かな境地に至った長老にとっては「精神療法の効果はプラセボ反応か」「精神療法の効果は自然治癒より高いか」「作用機序からみた精神療法の種類」「治療者に求められるもの」など初学者からベテランまでが抱くラディカルな問いについても、自己正当化の構えなく、聞き手の成長に役立つようにとの配慮のもと、丁寧に説くことが可能である。

本論である精神療法の技術の細部については、初学者ならわかりやすさに感激し、ベテランならこまやかさと深さに打ちのめされる助言が溢れている。切り取って引用すると味と芳香とを損ないかねず、憚られる。

芳醇の極みとはいえ、本書は一三五頁の小品である。あと三冊続くのだから、この値段はあんまりだ。ひとりでも多くの人に買って・読んでほしいから、中山書店さんオネガイシマスよ。

内科学書 改訂第7版

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完成度の高い内科学のテキスト 医学生にも研修医にも臨床医にも活用していただきたい1冊

レジデントノート Vol.12 No.3(5月号) BOOK REVIEWより

評者:野村英樹(金沢大学附属病院総合診療部)

多くの臨床医の学習はアメーバのようなものである.次々と新しい疾患概念が提唱され,診断法が発達し,治療法が開発されていくなかで,とりあえず必要とされる方向に知識を伸ばしていく.使われた知識は定着するが,使われない知識は退縮する.いつの間にか,縮んではいけないところまで縮んでいるのではないかとも思う.臨床医の知識には本来,もっとしっかりした骨格が必要なのだ.

医学知識の骨格は,EBM全盛の時代にあってもなお,病態生理である.どういうメカニズムで疾患が生じているのか,なぜその疾患ではそのような所見を認めるのか,なぜその疾患にはこの薬剤が効くのか.しっかりとした病態生理の骨格の上に肉付けされた知識は,本当に必要なときに活かされる.およそ医学のテキストというものには,このような知識の骨格を作る力が何よりも求められているのではないだろうか.

本書は,その意味で非常に完成度の高い内科学のテキストである.もともと内科学のスタンダードテキストとしてその読みやすさや内容のムラのなさに定評があった同書であるが,今回の改定から参加された塩澤昌英氏の「編集協力」の力も大きかったのではないかと私は推察している.国家試験を控えた医学生でこの方のお世話になっていない人はいないと思われるが,実は塩澤先生は,「Dr.一茶」として知られるカリスマ国試予備校講師である.筆者は米国Wisconsin大学でラットの腎不全感受性遺伝子の研究をなさっておられた頃に塩澤先生と知り合ったが,当時から太平洋をまたにかけて国試予備校講師の仕事も引き受けておられた.先生が研究にかけておられた情熱と同じように,教育にも熱い想いを語っておられたことをよく覚えている.実は,医学の学習における病態生理の重要性は,そのときに塩澤先生から教わったのである.

医学生の皆さんには,ぜひ本書を活用して,まずは脊椎動物のようなしっかりした内科学の骨格を身につけてほしい.また研修医の皆さんには,臨床現場で新たな経験をするたびに本書を見直し,国家試験までに作り上げた基本骨格を,現場で求められるさまざまな動きに対応できるしなやかな骨格へと成長させていただきたい.そしてもちろん,私を含めた臨床医も,筋力(エビデンス)だけに頼っていたらいつの間にか筋肉を支える骨格が多発骨折をきたしていたなどということのないよう,本書を活用して骨粗鬆症を予防していきたいと願っている.

糖尿病物語

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江戸時代に作られた和製漢字の“膵”と“腺”

東医協広報 No.201(2012年4月) 医書の本棚より

著者の垂井氏は、大阪大学名誉教授で大手前病院の名誉院長を務め、1990年には国際的に活躍した糖尿病研究者に与えられる、日本糖尿病学会ハーゲンドーン賞を受賞するなど、世界的な糖尿病学の権威である。

本書の帯によると、古代エジプト医学からルネサンス絵画や彫像、力士の肥満に至るまで糖尿病とその周辺を語り尽くし、専門家はもちろん医学的知識のない方にも興味深い一冊である。

糖尿病は、現在、人類の約6%の2億5千万人が罹患し、発症の初期には糖化ヘモグロビンの測定による検査を経ない限り発見しがたい疾病であると、本書の「序」にあるが、この疾病が歴史的にいかなる道筋で見出されたかということを第1章の「糖尿病物語」では語っている。

糖尿病の術語が生まれた背景は、ローマの帝政時代に遡る。現トルコのカッパドキアにアレタイオスという医家がいて、「慢性疾患の成因および症例について」を著し、糖尿病にdiabetes(ダイアベティス)という語を当てはめた。これについて、「糖尿病は身体からサイフォンに相当するような身体の仕組みを使って水が過剰にあふれ出る病気」と言い、以後、ダイアベティスとこれを呼んだ、と説明している。

続いて、第1章の後半部ではわが国で蘭学の影響が顕著になる江戸時代の文献を紹介し、当時、西洋では、18世紀にウイリアム・カレンがDiabetesを2つに分け、Diabetes mellitus蜜尿とdiabetes insipidus尿朋症とに分けたことから、蘭学においては、第一人者の誉れが高い適塾の緒方洪庵が、『扶氏経験遺訓』において“蜜尿”という語を訳出し、「渇き」という主観的な概念から、「多尿」という客観的病態にまで分析を深めている。しかも、江戸時代には糖尿病に関わる術語として、膵臓の“膵”という和字(または国字)が作られ、例えば、峠、凪、笹、俤、鰯などがこれに当たる。膵も和字の一つで、宇田川玄真著『医範提綱』別巻の「全身諸物の名および官能の綱領」には、説明のために“膵”と“腺”の語を作っている。それ以前は医学が中国の五臓六腑説に依拠しており、そこに膵臓に当たる臓器がなかったため、『解体新書』では腺をキリイル、膵を大キリイルと外国語を音のまま使っていた。

第2章は、「肥満の医学と美学」で、肥満の2種類には、子供を授かる可能性がある女性の皮下脂肪は健康な肥満で、男性に多い内臓脂肪による上半身肥満は不健康な肥満と分けて考えている。後者の内臓肥満は、死の四重奏の構成要素の一つであり、他の3つは耐糖能低下、高グセリド血症、高血圧である。中でも主導的なものが内臓脂肪の蓄積で、これを中心に糖・脂質代謝の隔たりが次第に増し、遅れて動脈硬化や高血圧などの異常も随伴して出現すると言う。

内臓脂肪は多くの弊害があるが、これには救いもあると著者は言う。それは、現在、注目されている酵素・アディポネクチンのことであり、これは脂肪細胞から分泌し、耐糖能を高め、糖尿病を防いで、動脈硬化を予防し、抗腫瘍、抗炎症作用を有する作用を持っている。しかし、万能の反面に欠点もあり、これは脂肪細胞から分泌されるにもかかわらず、内臓脂肪が蓄積するとこの酵素の血中濃度が低下してしまう。その理由は、脂肪蓄積とともに分泌が増す腫瘍壊死因子がアディポネクチン合成に強い抑制作用を発揮するからでもある、と著者は指摘している。

第3章は「グリコーゲン物語」と題する専門家向けの話だが、第4章は、「代謝病の周辺」で、真摯な医家の心構えを著者は説いている。ここでは“医戒乃略”を著して著者の私淑する緒方洪庵の至言を紹介し、書評を終える。

「病者の費用少なからん事を思うべし。命を与ふとも命を繋ぐの資を奪はば亦何の益かあらん」。

当直で 外来で もう困らない! 症候からみる神経内科

当直で 外来で もう困らない! 症候からみる神経内科 published on

診断・診療アルゴリズムがフローチャートで示され,しかも随所に図表が多用されており,視覚的かつ系統的に理解しやすい

内科 Vol.114 No.5(2014年11月号) Book Review

書評者:瀧山嘉久(山梨大学大学院医学工学総合研究部神経内科学講座教授)

本書は,「主訴」と「症候」から始まり,実際の神経内科診療の過程がわかりやすく記載され,初期研修医,専修医,神経内科専門医を目指す若手医師の神経内科診療の実践に役立つように意図されてつくられている.
きわめて広い守備範囲をもつ神経内科が取り扱う疾患について,診断・診療アルゴリズムがフローチャートで示され,しかも随所に図表が多用されており,視覚的かつ系統的に理解しやすい.若手医師が神経内科の勉強を始める際に,抵抗感なく自然に入り込める入門書として最適である.
「診断のコツ」と「治療のポイント」の二部構成で,「診断のコツ」では,日常診療で遭遇することの多い「呼びかけても反応しない」,「手足がけいれんする」,「頭がいたい」,「めまいがする」,「力がはいらない」など15種類の「主訴」について,病歴聴取のポイントと一般身体所見・神経学的所見の具体的な取り方,鑑別診断のために必要な検査,見逃してはいけない疾患が詳細に書かれている.「治療のポイント」では,「脳血管障害」,「認知症」,「パーキンソン病関連疾患」,「脊髄小脳変性症」,「神経免疫疾患」など代表的な神経内科的疾患に関して,基本的治療の内容が具体的に示されている.
若手医師が当直や外来などですぐに疾患を鑑別したいときに,いわゆるポケットマニュアルのように使うには,若干内容が盛りだくさんすぎるかもしれない.しかし,神経内科的疾患を解剖学的病態も含めて包括的に理解できる利点がある.さらに,神経内科の研修を楽しく充実したものにしてほしいという編者と執筆者の優しさが,「Point」,「予備知識」,「Red flags sign」,「key word」,「MEMO」として随所にあふれている.
本書は,若手医師には,ともすれば難解で敬遠されがちな神経内科に親しみをもたせて,その面白さを伝えてくれるに違いない.

同時代の精神病理

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読者の想像力をいやがうえにも刺激する構成

精神医学史研究 Vol.18 No.2(2014) 書評

書評者:江口重幸(東京武蔵野病院精神科)

本書は,そのタイトルどおり「同時代の精神病理」を論じた力作である.もうすこし踏み込んで言えば,精神医学・精神病理の現代史を描こうとする冒険的な試みである.まえがきの部分で本書の趣旨はこう記されている.「この三十年ほどの間に,精神の病態がどのように変化し,また,それを取り巻く社会がどのような変貌を遂げたか,この本で扱おうとしているのはそのような問いである」と.こうした視点から著者は,精神医学の前史から始め,変貌する病態,つまり境界例,神経症概念の解体とトラウマ,「うつ」の増加と変容,統合失調症の変化,自閉症スペクトラム障害の出現の現象等を,現代思想とをからめながら,大胆としかいえないルートをたどって横断していく.
ところで,「この三十年」というのはどのような時代だったのだろう.良くも悪しくもその期間に決定的なインパクトを与えたのは,1980年に出現したDSM-IIIだったのではないか.当初わが国の臨床家は冷笑をもって迎えられたが,これによって精神医学的知の産出国がヨーロッパからアメリカに移り,しかもそれはさまざまな専門家の意見調整や折衝を経て何年か毎に改訂され,新たなものは以前の基本的視点から大きく変容し,旧ヴァージョンは顧みられることもなくお蔵入りする…という,評者(私)の世代(1977年卒業)の精神科医からすると考えてもいなかったような事態が,着実に進行し,今や精神医学の臨床から地政学までを一変させてしまった.つまり,著者が言うように精神の病態とその基底の社会ばかりでなく,精神科医の視点や精神医学の枠組み自体が大きく変容しているのである.このように激しく流動する現実を切り取るためには,映画のアクションシーンを撮るカメラワークではないが,動く被写体を,撮影する側も同じように動きながら映しだしていくしかない.
しかも著者は,線状に段階的に連なる歴史の部分として現在=「モダン」を見るのではなく,いわばさまざまな要素が同時並行的に折り重なり,共存するものとして見ようとする.それが副題にある「ポリフォニー」が含意するものである.
著者はこうした基本的な視点から,ある時は臨床事例という「内部」のコースを通って,ある時はまったく「外部」から眺めるという,鳥瞰図と虫瞰図を組合わせるアクロバティックな手法で論じ,しかもところどころ著者の専門とする精神分析的視点が色濃く溢れだして,読者の想像力をいやがうえにも刺激する構成になっている.
評者(私)は1日1章ずつ読み進んだが,「臨床の場で,精神医学は」(序章),「変容する病態と社会」(第1章),「同時代の病い―いま何が起きているか」(第2章)までの,いわば本書の全体像を示す問題提起的なブロックがあり,ついで,「心因と時代」(第3章),「神経症という不思議」(第4章),「青年の近代」(第5章)という前半の1ブロックと,「知,メランコリー,内因」(第6章),「社会の中の「うつ病」」(第7章),「時代は何を失ったか―インファンティアとホモ・サケル」(第8章)という中間のブロック,そして,力のこもった「時代の中の統合失調症」(第9章)と,「自閉症スペクトラム障害と二つの穴」(第10章)の2章.こうした登攀路をたどることになる.その後,再度円環をなすように冒頭の問題提起が現われ,「ポリフォニーとしてのモダンと精神病理」(第11章),終章の「来るべき精神病理学のための覚書」にいたる.フロイトからラカン,オルテガからギデンズ,バフチーンからベンヤミン,ルジャンドルからアガンベン等々,数多くの人間科学的知のルートを示しながら,時代とともに大きく変貌を遂げている精神病理,精神医学,精神科臨床という領野を,果敢に縦走していくのである.読者はその終章の「覚書」にたどり着いた時,その次のラウンドは,筆者が本書で打ち込んだいくつかの目印を標識に,自分自身が独自なルートでたどらなければいけないということを改めて自覚することになる.同時代史は読者それぞれが描かなければならないものであり,しかもそれは大きな歴史的・社会的産物ではあるけれど,そこに参画している臨床家や研究者の手にも,その一部はゆだねられていることを,本書は力強く指し示しているように思う.


決して高踏的とならず、明晰な言葉でつづられ、臨床的明察がちりばめられている

こころの科学 No.177/09-2014 ほんとの対話

書評者:内海健(東京藝術大学保健管理センター)

ある集まりで、口さがない後輩がにやにやしながら、「今度は何が終わるのですか?」と話しかけてきた。髪も眉もすっかり白くなったが、この悪意のない傍若無人さは、三〇年前と変わらない。万年青年といえば聞こえはよいが、もう還暦も間近である。
「今度は何が終わるのですか?」というのは、私がことあるごとに、「分裂病の消滅」であるとか、「歴史の終わり」などとふれまわっていることを郷楡したのだろう。だが、私にしてみれば、それほどたいそうなことをいっているつもりはない。統合失調症の軽症化はすでに半世紀以上前から始まったことであり、「歴史の終わり」にしても、フランシス・フクヤマが提唱したのが二五年前のことである。
いわずもがなのことをつい口にしてしまうのは、多くの人たちが目の前でまさに起こっていることをみようとしないからである。少なくとも私にはそのようにみえる。だが、そうはいっても、「終わった」といっているばかりでは、何も始まらない。そこで「ポストモダン」という手っ取り早い言葉を、さして吟味もせず用いることにした。本書を読んだ今となって、私はとても恥ずかしい思いをしている。
言葉はきちんと定義して使うべきである。そのことは学問でも臨床でも、あたりまえのことである。ただ、定義にこだわるあまり、つまらないところをぐるぐるまわっているだけの議論がいかに多いことか。フンボルトは「言語はエルゴンではなく、エネルゲイアである」、つまり使用することこそが言語であるといっていたではないか。
それをよいことに、念仏のように「ポストモダン」と唱えていれば、そのうち展望が拓けるだろうという甘い考えに身をゆだねていた。ありていにいえば「モダン」の意味するところさえ、たいして吟味してこなかったのである。それに対して本書では、「モダン」という言葉のもつ意味がまず念入りに吟味されている。著者によれば、それは少なくとも七つのアスペクトをもっているという。その一つひとつが単に終わったとも続いているともいいがたい。たとえば「資本」についていうなら、国家ですら制御できないまでに巨大化しつつ、超低金利が示すように、増殖というその本性が瀕死の状態である。
ここ三〇年あまりの間、精神科臨床は劇的に変化した。二大精神病を基軸として、器質性精神病と神経症をその両脇に配置した疾病分類学がとうにゆるぎ始めている。内因性という用語が死語扱いとなり、統合失調症も気分障害も劇的に軽症化した。他方で、境界例、パーソナリティ障害、解離性障害、トラウマ、発達障害といった新しい病態が次々に押し寄せてくる。それに対して、精神医学は対症療法的、リスク管理的な彌縫策でしか対処しようとしてこなかった。目の前に起きていることを見ようとしていないといったのは、こうした現況のことである。
だが、ここで「ポストモダン」というお手頃な用語に飛びつくのは安易といわれてもいたしかたない。そして「終わった」とはいわないのが著者の思考のタフなところである。モダンをポリフォニーとしてとらえなおし、あざなえる縄を丹念にほぐし、端正な織物へと織り上げた。背景には深い見識を携えながら、決して高踏的とならず、明晰な言葉でつづられ、臨床的明察がちりばめられている。思考の緊張を要求されるが、読者のことを考えてか、各章が比較的短く設定されている。
あるASDの女性が、自分の思考を、空白の升目のないパズルのようなものであると述べた。余白がないから、組み替えたり、想像したりすることができない。そして人に言われたらその通りに受け取ってしまうのだという。彼女はこうした特性に気づき、そこからの展開を模索している。私との対話の中で、余白の存在とその意義を見出してくれたのかもしれない。
われわれは今、強大な思考停止概念に取り巻かれている。それは「脳」であり、「統計的エビデンス」であり、そしてDSMである。余白を埋め尽くされ汲々としているのはわれわれではないだろうか。もしまだ考えることを捨てないのであれば、そのための余白を本書が与えてくれるにちがいない。

てんかん症候群─乳幼児・小児・青年期のてんかん学 (原書 第5版)

てんかん症候群─乳幼児・小児・青年期のてんかん学 (原書 第5版) published on

世界中で読まれているてんかん学の教科書

BRAIN and NERVE Vol.66 No.11(2014年11月号) 書評

書評者:永井利三郎(大阪大学大学院医学系研究科教授)

本書は,本書の日本語版の序文で井上有史先生が述べておられるように,世界中で読まれているてんかん学の教科書です。近年,国際抗てんかん連盟(ILAE)の新しいてんかん症候群分類の提案があり,本書はそれに基づいて第5版として刊行されたもので,各てんかん症候群について詳細な記載がなされており,てんかん学の基本となる本です。本書の日本語版の刊行に当たった井上有史先生をはじめ,静岡てんかんセンターの先生方に感謝いたします。本書の特色は,何と言ってもDVDが添付されており,動画でてんかん発作を見ることができることです。この動画をご提供いただいた当事者やご家族の方々に心から感謝したいと思います。
今ほどてんかんに関する教育の意義が高まっている時期はこれまでになかったと思われます。てんかんの有病率は約1%と言われ,これはわが国に,約100万人のてんかん患者がおられることになります。日本てんかん学会の会員は現在2,000人余りで,このうちてんかん専門医は400人余りであり,当然ながらてんかん患者の診療には,てんかん専門医以外の多くの医師が関わっています。
残念ながらてんかんという疾患に関する誤解や偏見は,一般の方々の中に,まだまだ多くみられるのが現状です。てんかん専門医は,てんかん診療に関与している一般の医師や看護師などの医療職者だけでなく,一般の方々に,てんかんに関する正確な情報を提供していく責務を負っていると考えています。てんかん専門医の方々はもちろん,てんかんを学ぶ若手の先生方には,ぜひこの本を現場に活用していただきたいと思います。
また私たちの調査では,てんかん患者の生活の援助に当たる立場におられる,学校教員や施設職員などの援助職においても,「てんかんのことがよくわからない」,「発作の時どうしたらいいかわからない」,「発作対応のマニュアルが欲しい」などの意見があり,てんかんに関する正しい情報の提供を熱望されています。 この本が活用され,てんかん診療やてんかん患者への支援を高めることにつながることを期待しています。

聴診でここまでわかる身体所見

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若き学徒にも実地に携わる医師にも,広く目を通していただきたい珠玉の書

内科 Vol.107 No.3(2011年3月号) Book Reviewより

評者:坂本二哉(元日本心臓病学会理事長)

羽田君が東京大学第二内科心音図研究室にやってきたのは,東大紛争の余韻も消えた1972年で,研究室は心音図,心機図,心エコー図の機械に囲まれていた。毎週,全症例についての厳しい「心音カンファレンス」は,既往歴,問診,身体所見,心電図,胸部X線すべてを包括していたが,中核は心音図にあった。のちにそれに心エコー図が加わった。ほとんど全症例で,カンファレンスでの診断やそれに基づく治療法が侵襲的検査法で変えられたということはなかった。そういう現実がまた羽田君の現在の自信に繋がっている。なかでも聴診診断はことに厳しく,また的を射たものであった。

羽田君はそのような激戦の中で成長し,研究室の長になった。本書をみていると,その当時の彼のカンファレンス司会者ぶりが彷彿とする。

本書は全16章からなるが,出だし第1章「physical examination上達への七ヵ条」はまさに診断法のエッセンスであり,それに続く各章も,従来の教科書のような通り一辺のものではなく,外来から入院患者の診療に関する著者の強固な考えに彩られている。すべて他人に有無をいわせぬ正論なのだが,それをズバッと書くところがとても魅力的である。強いていえば,最近あまりみられなくなった起座呼吸(25頁)は,ただ座るのではなくて,以前なら座って枕,今なら食事用の机にうつ伏すのが一般で,こうすると下腹部以下に圧がかかり,静脈還流がいっそう抑制されて楽になる。その逆が左房粘液腫である。

第6章からは本論の聴診法,身体全体の観察に入るが,簡にして要を得,初心者の見逃しやすいところ,ヴェテランの陥りやすいところなど,勘所をきっちり押えて余すところがない。心音図がいたるところで現れるが,元来聴診と心音図は音楽と楽譜のような関係で,いわば心音図は聴診の客観化である。聴診所見をカルテに書くことは大切で(自己流でよい),また本書の中にはどこかの国の文字のようなユニークなペン書きがあるのは楽しいことだが,心音図は撮らなくても,こういう習慣はぜひ実行してもらいたい。また必要に応じて随所に模型図,表,胸部X線,心電図,心エコー図,CT像などを配置し,身体所見と現代的手法との関連が示され,相互の理解が深められるようになっている。

最後の第16章「身体所見に乏しい心疾患と病態」も独特で重要な記載である。心疾患でみた目に所見がないのは,逆からいうと,著者が述べるように,ある種の診断方向を示す指針だといえる。その場合の切り込み方は,臨床家羽田君の力量が如実に示されるものである。

羽田君は収縮期雑音(ことに収縮中期雑音)や前収縮期雑音にこだわり,外国の一流学者と論戦し,幾多の論文を書いた。西欧の聴診・心音図の伝統を破るのは困難だが,心音図に関する限り,たとえば86頁や118頁の心音図にみられるように,“Japan as number one”は万人の認めるところであり,そして羽田君は間違いなくその先頭を行く一人である。

最後に特筆すべきは,これが終始一貫,一人の著者によって書き上げられた珠玉の書であるということである。

若き学徒も,実地に携わる医師も,広く目を通していただきたい。

総合小児医療カンパニア 乳幼児を診る

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小児臨床に携わる方は是非一読を

小児科診療 Vol.78 No.5(2015年5月号) 書評より

書評者:堀内 勁(聖マリアンナ医科大学小児科)

小児科の実地診療では本来の疾病治療から疾病予防と育児支援へとその内容が広がってきている.特に育児支援は,症状から病因を探り治療するという,通常の医療の取り組みだけでは足りない.
本書は育児支援を自然科学と人間科学とをあわせた視点で捉えることから始め,子どもの成長発達と親としての成長,それに伴う育児不安までを視野に入れた構成となっている.また,成長発達に伴うつまづきについても簡潔に要点が捉えられ,小児科医としてどのように対処すればよいかが述べられている.
実際に乳児健診の場で傷つけられ,自信をなくして,私のもとに相談にみえる家族は少なくない.小児科医として育児支援に携わっていると,自分の知識は仮説の集まりにすぎず,親子1組ずつの真実はすべて同一ではないことに気づく.
私たちが親子を評価し,判断し,挙げ句の果てに品定めをするのではなく,親子をとりまく環境や,子育ての物語を傾聴することで,その物語の流れの中で問題が解消していくように支えることができる.いってみれば,解決型の小児科臨床から解消型の育児支援への転換が期待される.小児臨床に携わる方は是非一読をお薦めする.

総合小児医療カンパニア 小児科コミュニケーションスキル

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「子どもへの説明」と「保護者への説明」が実例を含めて記載されている

小児内科 Vol.46 No.5(2014年5月号) Book Review

書評者:窪田満(埼玉県立小児医療センター総合診療科)

かつて,「ムンテラ」という言葉があった。最近使用されなくなってきた理由は,そのニュアンスに「患者を言いくるめる」という響きがあるからであろう。この本は,決して「ムンテラ」のための本ではない。目の前の子どもを,保護者を,さまざまな相談にこられた一人の人間として捉え,プロフェッショナルである私たちが「コミュニケーション」という手段を用いて,真摯にその要求に対応するための方法を説いてくれている。
この本には,「子どもへの説明」と「保護者への説明」が実例を含めて記載されており,大変参考になる。とくに「言わない方がいい言葉」には,はっとさせられる。実際に,喉元まで出かかった言葉は確かにある。子どもへの配慮,保護者の精神面や親子の関係性への配慮,地域医療への配慮などがまだまだ自分には足りないことに気づかされる。
そして,読み進めていて,ハタと気がつく。私には同じ言葉を発するのは無理だと。高いレベルの対応力や,珠玉の言葉たちは,「スキル=技術」であることは理解できる。しかし,それは執筆者の先生方が培ってこられた「人間力」に裏打ちされたものなのだ。先生方のクリニックを受診する前は心配顔だった親子が,クリニックから帰る時には,きっと笑顔になっているのだろう。病気を診てもらった以上に,色々な話ができた,コミュニケーションができた満足感を持って家路についているのだろう。自分もいつか,こういう小児科医になりたい,そう思わせてくれる。ここに書かれている珠玉の言葉を,今,そのまま使うことはできないが,必ずスキルを身につけて自分の診療に反映させたい。
この本を,日々「コミュニケーション」を積み重ねている,すべての小児科医にお勧めする。

総合小児医療カンパニア 小児科医の役割と実践

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奇妙にして,稀有なる本

小児科診療 Vol.76 No.12(2013年12月号) 書評より

書評者:岩田健太郎(神戸大学医学部教授)

本書は一見,実に奇妙な本である.でも,得心した.本書は「小児医学」のテキストではなく,「小児医療学」のテキストなのだ.
たとえば,地域や行政とのかかわりかたを論じる教科書は稀有である.しかし,予防接種の公費負担を勝ち取るためのノウハウは,小児科医としてはぜひ教えてほしいところだろう.子育て関連支援法についてだって学びたい.現代小児の周辺にある衣食住の現実(レトルト食品の売上とか)も知りたい.小児慢性疾患患者の成人医療へのトランジションも切実な問題だ.本書にはこうした現場の切実な問題が(たぶん)すべて網羅されている.
自分たちが有効活用されるためには,家庭での小児のケアが重要になる.小児が発熱したとき,どのように家庭でケアできるのか.ふつうのテキストは医療が何を提供するのかを語る.本書は医療が提供しなくてもよい条件を検討する.
あるいは,時間外診療のありかた,電話のかけかた.いずれも現場における切実な問題で,どれも(ふつうの)教科書には書いていない.学校でも教えてくれない.保護者に電話で「大丈夫でしょうか」と言われたとき,どう答えるか.「ご心配だったら,受診してください」は通俗的な回答だ(ぼくもよくそう言っていた)が,相手の欲するのはそういうことではない.では,どう答えればよいのか.それは本書の103ページに書いてある.
とくに感心したのは,「他科協働」というセクションを設けていることだ.眼科との,耳鼻科との,歯科との,整形外科との協働のありかた.実に必要なスキルだが,Nelsonにはこういうセクションはないし(18版),Rakelの家庭医学にもない(8版).他科との協働はスローガンとしてはよく聞かれる.本書ほど具体性をもってそれを示した教科書をぼくは他に知らない.
本書はおそらく,きわめて厳しい環境下で歯を食いしばる小児科医たちの切実な魂の結実である.教科書を読んで感動することは,まずない.でも,本書には心が震えた.