読者の想像力をいやがうえにも刺激する構成

精神医学史研究 Vol.18 No.2(2014) 書評

書評者:江口重幸(東京武蔵野病院精神科)

本書は,そのタイトルどおり「同時代の精神病理」を論じた力作である.もうすこし踏み込んで言えば,精神医学・精神病理の現代史を描こうとする冒険的な試みである.まえがきの部分で本書の趣旨はこう記されている.「この三十年ほどの間に,精神の病態がどのように変化し,また,それを取り巻く社会がどのような変貌を遂げたか,この本で扱おうとしているのはそのような問いである」と.こうした視点から著者は,精神医学の前史から始め,変貌する病態,つまり境界例,神経症概念の解体とトラウマ,「うつ」の増加と変容,統合失調症の変化,自閉症スペクトラム障害の出現の現象等を,現代思想とをからめながら,大胆としかいえないルートをたどって横断していく.
ところで,「この三十年」というのはどのような時代だったのだろう.良くも悪しくもその期間に決定的なインパクトを与えたのは,1980年に出現したDSM-IIIだったのではないか.当初わが国の臨床家は冷笑をもって迎えられたが,これによって精神医学的知の産出国がヨーロッパからアメリカに移り,しかもそれはさまざまな専門家の意見調整や折衝を経て何年か毎に改訂され,新たなものは以前の基本的視点から大きく変容し,旧ヴァージョンは顧みられることもなくお蔵入りする…という,評者(私)の世代(1977年卒業)の精神科医からすると考えてもいなかったような事態が,着実に進行し,今や精神医学の臨床から地政学までを一変させてしまった.つまり,著者が言うように精神の病態とその基底の社会ばかりでなく,精神科医の視点や精神医学の枠組み自体が大きく変容しているのである.このように激しく流動する現実を切り取るためには,映画のアクションシーンを撮るカメラワークではないが,動く被写体を,撮影する側も同じように動きながら映しだしていくしかない.
しかも著者は,線状に段階的に連なる歴史の部分として現在=「モダン」を見るのではなく,いわばさまざまな要素が同時並行的に折り重なり,共存するものとして見ようとする.それが副題にある「ポリフォニー」が含意するものである.
著者はこうした基本的な視点から,ある時は臨床事例という「内部」のコースを通って,ある時はまったく「外部」から眺めるという,鳥瞰図と虫瞰図を組合わせるアクロバティックな手法で論じ,しかもところどころ著者の専門とする精神分析的視点が色濃く溢れだして,読者の想像力をいやがうえにも刺激する構成になっている.
評者(私)は1日1章ずつ読み進んだが,「臨床の場で,精神医学は」(序章),「変容する病態と社会」(第1章),「同時代の病い―いま何が起きているか」(第2章)までの,いわば本書の全体像を示す問題提起的なブロックがあり,ついで,「心因と時代」(第3章),「神経症という不思議」(第4章),「青年の近代」(第5章)という前半の1ブロックと,「知,メランコリー,内因」(第6章),「社会の中の「うつ病」」(第7章),「時代は何を失ったか―インファンティアとホモ・サケル」(第8章)という中間のブロック,そして,力のこもった「時代の中の統合失調症」(第9章)と,「自閉症スペクトラム障害と二つの穴」(第10章)の2章.こうした登攀路をたどることになる.その後,再度円環をなすように冒頭の問題提起が現われ,「ポリフォニーとしてのモダンと精神病理」(第11章),終章の「来るべき精神病理学のための覚書」にいたる.フロイトからラカン,オルテガからギデンズ,バフチーンからベンヤミン,ルジャンドルからアガンベン等々,数多くの人間科学的知のルートを示しながら,時代とともに大きく変貌を遂げている精神病理,精神医学,精神科臨床という領野を,果敢に縦走していくのである.読者はその終章の「覚書」にたどり着いた時,その次のラウンドは,筆者が本書で打ち込んだいくつかの目印を標識に,自分自身が独自なルートでたどらなければいけないということを改めて自覚することになる.同時代史は読者それぞれが描かなければならないものであり,しかもそれは大きな歴史的・社会的産物ではあるけれど,そこに参画している臨床家や研究者の手にも,その一部はゆだねられていることを,本書は力強く指し示しているように思う.


決して高踏的とならず、明晰な言葉でつづられ、臨床的明察がちりばめられている

こころの科学 No.177/09-2014 ほんとの対話

書評者:内海健(東京藝術大学保健管理センター)

ある集まりで、口さがない後輩がにやにやしながら、「今度は何が終わるのですか?」と話しかけてきた。髪も眉もすっかり白くなったが、この悪意のない傍若無人さは、三〇年前と変わらない。万年青年といえば聞こえはよいが、もう還暦も間近である。
「今度は何が終わるのですか?」というのは、私がことあるごとに、「分裂病の消滅」であるとか、「歴史の終わり」などとふれまわっていることを郷楡したのだろう。だが、私にしてみれば、それほどたいそうなことをいっているつもりはない。統合失調症の軽症化はすでに半世紀以上前から始まったことであり、「歴史の終わり」にしても、フランシス・フクヤマが提唱したのが二五年前のことである。
いわずもがなのことをつい口にしてしまうのは、多くの人たちが目の前でまさに起こっていることをみようとしないからである。少なくとも私にはそのようにみえる。だが、そうはいっても、「終わった」といっているばかりでは、何も始まらない。そこで「ポストモダン」という手っ取り早い言葉を、さして吟味もせず用いることにした。本書を読んだ今となって、私はとても恥ずかしい思いをしている。
言葉はきちんと定義して使うべきである。そのことは学問でも臨床でも、あたりまえのことである。ただ、定義にこだわるあまり、つまらないところをぐるぐるまわっているだけの議論がいかに多いことか。フンボルトは「言語はエルゴンではなく、エネルゲイアである」、つまり使用することこそが言語であるといっていたではないか。
それをよいことに、念仏のように「ポストモダン」と唱えていれば、そのうち展望が拓けるだろうという甘い考えに身をゆだねていた。ありていにいえば「モダン」の意味するところさえ、たいして吟味してこなかったのである。それに対して本書では、「モダン」という言葉のもつ意味がまず念入りに吟味されている。著者によれば、それは少なくとも七つのアスペクトをもっているという。その一つひとつが単に終わったとも続いているともいいがたい。たとえば「資本」についていうなら、国家ですら制御できないまでに巨大化しつつ、超低金利が示すように、増殖というその本性が瀕死の状態である。
ここ三〇年あまりの間、精神科臨床は劇的に変化した。二大精神病を基軸として、器質性精神病と神経症をその両脇に配置した疾病分類学がとうにゆるぎ始めている。内因性という用語が死語扱いとなり、統合失調症も気分障害も劇的に軽症化した。他方で、境界例、パーソナリティ障害、解離性障害、トラウマ、発達障害といった新しい病態が次々に押し寄せてくる。それに対して、精神医学は対症療法的、リスク管理的な彌縫策でしか対処しようとしてこなかった。目の前に起きていることを見ようとしていないといったのは、こうした現況のことである。
だが、ここで「ポストモダン」というお手頃な用語に飛びつくのは安易といわれてもいたしかたない。そして「終わった」とはいわないのが著者の思考のタフなところである。モダンをポリフォニーとしてとらえなおし、あざなえる縄を丹念にほぐし、端正な織物へと織り上げた。背景には深い見識を携えながら、決して高踏的とならず、明晰な言葉でつづられ、臨床的明察がちりばめられている。思考の緊張を要求されるが、読者のことを考えてか、各章が比較的短く設定されている。
あるASDの女性が、自分の思考を、空白の升目のないパズルのようなものであると述べた。余白がないから、組み替えたり、想像したりすることができない。そして人に言われたらその通りに受け取ってしまうのだという。彼女はこうした特性に気づき、そこからの展開を模索している。私との対話の中で、余白の存在とその意義を見出してくれたのかもしれない。
われわれは今、強大な思考停止概念に取り巻かれている。それは「脳」であり、「統計的エビデンス」であり、そしてDSMである。余白を埋め尽くされ汲々としているのはわれわれではないだろうか。もしまだ考えることを捨てないのであれば、そのための余白を本書が与えてくれるにちがいない。