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精神医学の知と技 沖縄の精神医療

精神医学の知と技 沖縄の精神医療 published on

沖縄の精神医療を論じながら,日本全体,そして世界の精神医療の動向もが明らかにされている

精神医学 Vol.58 No.3(2016年3月号) 書評より

書評者:西園昌久(心理社会的精神医学研究所)

沖縄は日本人の良心を問うている。それが本土復帰直前とその後の若干でも沖縄の精神医療を垣間見た評者の実感である。
著者は戦禍が残り,本土復帰後の社会変動の激しい中で誕生した琉球大学医学部の精神科初代教授として赴任し,沖縄の精神医療の改善向上に尽力し,退任後の今もそれを続けている人である。
内容は,第一章 沖縄県の概要から始まり,沖縄県の医療の歴史,沖縄の民族信仰とシャーマニズム,沖縄の精神医療の歴史と現状,沖縄における地域精神医療の歩み,沖縄における予防精神医療の歩みと続き,第七章 沖縄の精神医学・医療における国際交流で終わっている。さらに巻末に,沖縄県の精神医療に関する年表が記載され,読者の便宜が配慮されている。科学あるいは理念としての精神医学は万国共通であろうが,その実践としての精神医療はその国,あるいは地域の歴史,文化,習慣,法律,経済事情,住民の理解,さらには社会変動と深く関わるものである。本書では上記の章立ての内容にみられるようにそれらを的確に把握して記述されている。しかも,沖縄のみならず,必要に応じて日本全体,さらには外国の統計資料を駆使し理解を助けている。したがって,沖縄の精神医療を論じながら,日本全体,そして世界の精神医療の動向もが明らかにされている。
沖縄戦の犠牲者は,日米の軍関係者は別として,沖縄住民,十数万人といわれるから全住民の10%強に相当する。当時,外傷後ストレス障害の概念はなかったが,「この世が信じられない」という外傷体験を多くの住民が体験したことは想像できるところである。本書の中で,本土復帰前,「精神衛生実態調査」が行われ,その結果,精神障害有病率は本土の約2倍に相当するとされたことが明らかにされた。それは,沖縄戦によって住民が受けた心的トラウマと無関係でないであろう。精神医療の決定的不足を補う「派遣医制度」,復帰後の精神科病床ならびに精神科クリニックの急増が数字を挙げて明らかにされている。そのような精神医療の充実の進んだ時点で著者はその動向にある種の危惧を体験された模様である。
その後,著者は琉球大学精神科の診療ならびに研究活動として,予防精神医療を始められたことが明らかにされている。同教室の研究成果のみならず,国際交流,国内における予防精神医学の主導,その後の発展が記載されている。それは,著者が精神科医になって間もなく,派遣された精神科病院での原体験と深く関わっていることが読みとれる。本書は読みながら,精神科医としての自分の立ち位置を内省させられる内容を含んでいる。そして,沖縄戦で戦死された著者のご尊父への鎮魂の報告書でもあろうと思われた。

西園精神療法ゼミナール 1 精神療法入門

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芳醇の極み 静かな境地に至った長老が語る入門書

こころの科学 No.154/11-2011 ほんとの対話より

評者:神田橋條治(伊敷病院)

入門書は長老によって書かれるべきだ」が読後の感想である。多くの入門書は、ベテランあるいはベテランと自覚する人々、弟子を育てている最中の人によって書かれる。資料とされるのは、みずからの成長の経緯の記憶と、育成中の弟子の観察である。それに比して、長老の資料には、ベテランの域に成長した弟子たちの成り行きと現状観察が大きく加わる。前者は親が書いた育児書であり、長老によるそれは祖父が語る育児の知恵である。

半世紀ほど前、僕らが師事していらい今日まで、先生は一貫して治療者であり教育者である。八〇歳を超えたいまも、クリニックで主治医として診断をなさっており、往診をされることもあると聞く。加えて、併設する「心理社会的精神医学研究所」で毎水曜日夜「精神療法講座」を開かれ、すでに一一年目を迎えている。講師陣は、広義の精神療法や関連する諸分野の錚々たるメンバーが連なっている。そのなかの西園先生ご自身の担当分が、四冊組で出版されることとなり、幕開けが本書である。

「皆さんはDSMやICDなどの操作的診断をすることになると思いますが、臨床的診断をするうえで症状の把握のために、それぞれいろいろな『型』をおもちだと思います。ここでは私の『型』をお話しします。これは、私が長年の患者さんとの経験によりつくったもので『こうしなくてはいけない』というものではありませんが参考にして下さい」。この文章に続けて、①睡眠障害、②食欲、③不安の有無、④抑うつ感情と自殺念慮の有無、⑤対人関係上の苦痛、⑥精神病的考え、⑦記憶力・計算力障害の有無の項目が語られ、⑦については「身体の質問から始めて、『気持ち』『対人関係』という患者さんの主観の世界にだんだん入っていって、コミュニケーションがついた後に初めて、こうした欠陥に関することを訊ねるという配慮が必要です」と、関係づくりをなにより大切にされる先生の姿勢が説かれる。

関係が生じると臨床観察のデータが汚染されるという妄念に対抗し「関与しながらの観察」とのスローガンが言い立てられて久しい。本書を診断技術の入門書とみなし「関与あってこそ、得られる臨床観察のデータは有用であり」「援助者としての関与が生みだすデータこそ、客観的であり、真理に迫る」と、その技術を散りばめながら縦横に論じている書と読むこともできる。「援助者としての関わりの場」を極力排除したデータに基づく診断習慣、が生み出している悲惨への怒りが伝わってくる。

「私の『型』」という文章が本書の実態を示している。精神療法を手立ての一つとして、援助者としての歴史を刻んできた長老の体現しているものが「型」である。最終の拠りどころである。現在である。そこからすべては眺められる。先生は主に精神分析の世界を歩いてこられたので、記述の内容は、精神分析の歴史上の症例や理論が多くを占める。しかしいまや、それらは「到達した現在」の視点から眺められ参照される、さまざまな小話であり、長老が後進に伝えようとする意味や考えを運ぶ荷車である。意味や考えの拠りどころとはなっていない。文章の言い回しの味わいの中に、祖父の特質である「自身に拠る」爽やかさが読み取れ心地よい。

静かな境地に至った長老にとっては「精神療法の効果はプラセボ反応か」「精神療法の効果は自然治癒より高いか」「作用機序からみた精神療法の種類」「治療者に求められるもの」など初学者からベテランまでが抱くラディカルな問いについても、自己正当化の構えなく、聞き手の成長に役立つようにとの配慮のもと、丁寧に説くことが可能である。

本論である精神療法の技術の細部については、初学者ならわかりやすさに感激し、ベテランならこまやかさと深さに打ちのめされる助言が溢れている。切り取って引用すると味と芳香とを損ないかねず、憚られる。

芳醇の極みとはいえ、本書は一三五頁の小品である。あと三冊続くのだから、この値段はあんまりだ。ひとりでも多くの人に買って・読んでほしいから、中山書店さんオネガイシマスよ。

同時代の精神病理

同時代の精神病理 published on

読者の想像力をいやがうえにも刺激する構成

精神医学史研究 Vol.18 No.2(2014) 書評

書評者:江口重幸(東京武蔵野病院精神科)

本書は,そのタイトルどおり「同時代の精神病理」を論じた力作である.もうすこし踏み込んで言えば,精神医学・精神病理の現代史を描こうとする冒険的な試みである.まえがきの部分で本書の趣旨はこう記されている.「この三十年ほどの間に,精神の病態がどのように変化し,また,それを取り巻く社会がどのような変貌を遂げたか,この本で扱おうとしているのはそのような問いである」と.こうした視点から著者は,精神医学の前史から始め,変貌する病態,つまり境界例,神経症概念の解体とトラウマ,「うつ」の増加と変容,統合失調症の変化,自閉症スペクトラム障害の出現の現象等を,現代思想とをからめながら,大胆としかいえないルートをたどって横断していく.
ところで,「この三十年」というのはどのような時代だったのだろう.良くも悪しくもその期間に決定的なインパクトを与えたのは,1980年に出現したDSM-IIIだったのではないか.当初わが国の臨床家は冷笑をもって迎えられたが,これによって精神医学的知の産出国がヨーロッパからアメリカに移り,しかもそれはさまざまな専門家の意見調整や折衝を経て何年か毎に改訂され,新たなものは以前の基本的視点から大きく変容し,旧ヴァージョンは顧みられることもなくお蔵入りする…という,評者(私)の世代(1977年卒業)の精神科医からすると考えてもいなかったような事態が,着実に進行し,今や精神医学の臨床から地政学までを一変させてしまった.つまり,著者が言うように精神の病態とその基底の社会ばかりでなく,精神科医の視点や精神医学の枠組み自体が大きく変容しているのである.このように激しく流動する現実を切り取るためには,映画のアクションシーンを撮るカメラワークではないが,動く被写体を,撮影する側も同じように動きながら映しだしていくしかない.
しかも著者は,線状に段階的に連なる歴史の部分として現在=「モダン」を見るのではなく,いわばさまざまな要素が同時並行的に折り重なり,共存するものとして見ようとする.それが副題にある「ポリフォニー」が含意するものである.
著者はこうした基本的な視点から,ある時は臨床事例という「内部」のコースを通って,ある時はまったく「外部」から眺めるという,鳥瞰図と虫瞰図を組合わせるアクロバティックな手法で論じ,しかもところどころ著者の専門とする精神分析的視点が色濃く溢れだして,読者の想像力をいやがうえにも刺激する構成になっている.
評者(私)は1日1章ずつ読み進んだが,「臨床の場で,精神医学は」(序章),「変容する病態と社会」(第1章),「同時代の病い―いま何が起きているか」(第2章)までの,いわば本書の全体像を示す問題提起的なブロックがあり,ついで,「心因と時代」(第3章),「神経症という不思議」(第4章),「青年の近代」(第5章)という前半の1ブロックと,「知,メランコリー,内因」(第6章),「社会の中の「うつ病」」(第7章),「時代は何を失ったか―インファンティアとホモ・サケル」(第8章)という中間のブロック,そして,力のこもった「時代の中の統合失調症」(第9章)と,「自閉症スペクトラム障害と二つの穴」(第10章)の2章.こうした登攀路をたどることになる.その後,再度円環をなすように冒頭の問題提起が現われ,「ポリフォニーとしてのモダンと精神病理」(第11章),終章の「来るべき精神病理学のための覚書」にいたる.フロイトからラカン,オルテガからギデンズ,バフチーンからベンヤミン,ルジャンドルからアガンベン等々,数多くの人間科学的知のルートを示しながら,時代とともに大きく変貌を遂げている精神病理,精神医学,精神科臨床という領野を,果敢に縦走していくのである.読者はその終章の「覚書」にたどり着いた時,その次のラウンドは,筆者が本書で打ち込んだいくつかの目印を標識に,自分自身が独自なルートでたどらなければいけないということを改めて自覚することになる.同時代史は読者それぞれが描かなければならないものであり,しかもそれは大きな歴史的・社会的産物ではあるけれど,そこに参画している臨床家や研究者の手にも,その一部はゆだねられていることを,本書は力強く指し示しているように思う.


決して高踏的とならず、明晰な言葉でつづられ、臨床的明察がちりばめられている

こころの科学 No.177/09-2014 ほんとの対話

書評者:内海健(東京藝術大学保健管理センター)

ある集まりで、口さがない後輩がにやにやしながら、「今度は何が終わるのですか?」と話しかけてきた。髪も眉もすっかり白くなったが、この悪意のない傍若無人さは、三〇年前と変わらない。万年青年といえば聞こえはよいが、もう還暦も間近である。
「今度は何が終わるのですか?」というのは、私がことあるごとに、「分裂病の消滅」であるとか、「歴史の終わり」などとふれまわっていることを郷楡したのだろう。だが、私にしてみれば、それほどたいそうなことをいっているつもりはない。統合失調症の軽症化はすでに半世紀以上前から始まったことであり、「歴史の終わり」にしても、フランシス・フクヤマが提唱したのが二五年前のことである。
いわずもがなのことをつい口にしてしまうのは、多くの人たちが目の前でまさに起こっていることをみようとしないからである。少なくとも私にはそのようにみえる。だが、そうはいっても、「終わった」といっているばかりでは、何も始まらない。そこで「ポストモダン」という手っ取り早い言葉を、さして吟味もせず用いることにした。本書を読んだ今となって、私はとても恥ずかしい思いをしている。
言葉はきちんと定義して使うべきである。そのことは学問でも臨床でも、あたりまえのことである。ただ、定義にこだわるあまり、つまらないところをぐるぐるまわっているだけの議論がいかに多いことか。フンボルトは「言語はエルゴンではなく、エネルゲイアである」、つまり使用することこそが言語であるといっていたではないか。
それをよいことに、念仏のように「ポストモダン」と唱えていれば、そのうち展望が拓けるだろうという甘い考えに身をゆだねていた。ありていにいえば「モダン」の意味するところさえ、たいして吟味してこなかったのである。それに対して本書では、「モダン」という言葉のもつ意味がまず念入りに吟味されている。著者によれば、それは少なくとも七つのアスペクトをもっているという。その一つひとつが単に終わったとも続いているともいいがたい。たとえば「資本」についていうなら、国家ですら制御できないまでに巨大化しつつ、超低金利が示すように、増殖というその本性が瀕死の状態である。
ここ三〇年あまりの間、精神科臨床は劇的に変化した。二大精神病を基軸として、器質性精神病と神経症をその両脇に配置した疾病分類学がとうにゆるぎ始めている。内因性という用語が死語扱いとなり、統合失調症も気分障害も劇的に軽症化した。他方で、境界例、パーソナリティ障害、解離性障害、トラウマ、発達障害といった新しい病態が次々に押し寄せてくる。それに対して、精神医学は対症療法的、リスク管理的な彌縫策でしか対処しようとしてこなかった。目の前に起きていることを見ようとしていないといったのは、こうした現況のことである。
だが、ここで「ポストモダン」というお手頃な用語に飛びつくのは安易といわれてもいたしかたない。そして「終わった」とはいわないのが著者の思考のタフなところである。モダンをポリフォニーとしてとらえなおし、あざなえる縄を丹念にほぐし、端正な織物へと織り上げた。背景には深い見識を携えながら、決して高踏的とならず、明晰な言葉でつづられ、臨床的明察がちりばめられている。思考の緊張を要求されるが、読者のことを考えてか、各章が比較的短く設定されている。
あるASDの女性が、自分の思考を、空白の升目のないパズルのようなものであると述べた。余白がないから、組み替えたり、想像したりすることができない。そして人に言われたらその通りに受け取ってしまうのだという。彼女はこうした特性に気づき、そこからの展開を模索している。私との対話の中で、余白の存在とその意義を見出してくれたのかもしれない。
われわれは今、強大な思考停止概念に取り巻かれている。それは「脳」であり、「統計的エビデンス」であり、そしてDSMである。余白を埋め尽くされ汲々としているのはわれわれではないだろうか。もしまだ考えることを捨てないのであれば、そのための余白を本書が与えてくれるにちがいない。

専門医のための精神科臨床リュミエール 30 精神医学の思想

専門医のための精神科臨床リュミエール 30 精神医学の思想 published on

精神医学とその関連領域の最近の進歩を安心して学ぶ格好の教材

精神医学 Vol.54 No.9(2012年9月号) 書評より

評者:西園昌久(心理社会的精神医学研究所)

本書の「序」によると,日々新たに加わる精神医学上の課題の解決の方向を照らしだす光(フランス語:リュミエール)の役割を果たすことを目的に刊行されてきた本シリーズも一旦,本書をもって休止されるという。従って本書はいわば,これまでの本シリーズの総括書である。題して,『精神医学の思想』。評者のような年輩の者ならずとも,日々のおのれの臨床の所為にいささかな思いをしている精神科医は手にしたいネーミングの本である。というのも精神医学は人間存在,そして社会のあいまいさ,不確かさに対応せねばならない。つまり,精神科医は本来,「考える人」であることを求められるのである。それに応ずるかのように,本書の「序」で2人の編者は連名で,“そもそも精神の自由とはどういう状態なのか,そして究極的には,人であるとはどういうことなのかなどの疑問を抱きながら,精神医学は精神を病む人びとと向きあうことになる”と記している。その謙虚さこそ精神医学を成り立たせるものであろうし,本書編集の基本的態度であろうと読みとれる。
本書は6章21項目からなる構成である。それを紹介することは指定された字数を超えるためできないが,よくもまあこれだけのテーマを用意され,しかもそれにふさわしい執筆者を集められたものと思う。大学を辞めて10数年経つ評者には執筆者の多くの方は未知の人であるが,それぞれの内容はそれぞれの専門の立場から本書の『精神医学の思想』の趣旨にそった論述をされ,徒らに自己の立場に拘わるという論文は見あたらない。その意味で,精神医学とその関連領域の最近の進歩を安心して学ぶ格好の教材である。わが国の精神医学研究陣の健在さとその可能性をあらためて実感することができた。
第1章には「精神医学とは何か」と題して本書の基調をなす内容が明らかにされている。その中で,精神医学は,「精神疾患に病む人の人間理解」として,脳疾患の次元からみた理解,気質・体質,パーソナリティの次元から見た理解,現象学的次元から見た理解,人間学的次元からみた理解,社会・環境の次元からみた理解よりなる「5次元的精神医学」が解説されている。DSM-Ⅲがあらわれる前までに精神科医に育った人たちには,その一部をあげれば懐かしいKraepelin, Jaspers, Schneider, Kretschmer, Rumke(uはuウムラウト), Minkowski, von Gebsattel, Binswangerなどの精神科医の名前が陸続と登場しその学説が病む人の人間理解という視点から解説されている。「人間学的次元からみた理解」の中で,はじめFreudの影響を受け,後にそこから離れて独自の現存在分析を創始したBinswangerの解説に著者の思いがこもっているように見受けられる。そのBinswangerは,彼自身の著書の中で,“聴くこと,それは精神医学における鍵技能である。Freudの影響が及ぶ前は,精神科問診は衣服やシャツの上から打聴診するに等しく,患者の本質的なことは取り残され確かめられないままであった”と記していることを紹介しておきたい。DSM-Ⅲ以降の精神科診断に対するある種の閉塞感もBinswangerの戒めに従えば時代的逆行と云えよう。『精神医学の思想』を語る時,更に論じていただきたいことは,人類社会の発展の折々の時代精神の変化が疾病構造とそれに対応する精神医学の内容に与えている影響についてである。そして,社会精神医学の理念と関連した精神科チーム医療も大切なテーマと思う。ともあれ,精神科医の必読の本である。日本精神神経学会学術総会などで論じあうのに最適のテキストである。


いくつもの教訓を得られること間違いない

臨床精神医学 Vol.41 No.8(2012年8月号) 書評より

評者:原田憲一(武田病院)

本書は松下正明総編集によって4年前に出発した〈リュミエール〉シリーズ30巻の最終を飾る論文集である。
本論文集の責任編集者神庭重信,松下正明両氏による序文にこの本の意図がわかりやすく述べられている。すなわち「精神医学とはどういう医学なのか」,「精神を病むとはどういうことか」,「精神医学の乱用と倫理性の問題」,「脳-心問題」そして「精神医学と人文科学」といった問題意識をもってこの本は編まれた。
いくつか私に強い印象を与えた言説を記す。
20世紀の精神医学を形作った現象学的,人間学的,社会学的思想は21世紀にも必要である(松下正明)。ヒトの進化にかかわる遺伝子は,別の神経活動の関連遺伝子に比べて,統合失調症とより強いつながりを持つ。今日正常性の基準の底上げが顕著で,それは過剰規範の性格を帯びる(加藤 敏)。文化結合症候群のことを考えれば精神医学概念が普遍妥当性をもっていないことがわかる(下地明友)。精神医学は反精神医学とともにあって初めて正確に機能するものである(鈴木國文)。精神医学というのは,原因不明なものや説明不可能なものこそを扱う運命にあるように見える。近年は人が経験する苦悩の多くを精神的な問題をして医療化する傾向にあり,操作的診断はその具体化を図っている(岡田幸之)。神経倫理学とは,人間の脳の治療やエンパワーメントの正邪を論じる哲学であり,すでに200年前から論じられてきた(香川知晶)。「病因指向的」な治療思想でなく,「回復指向的」な治療思想が大切だ(八木剛平)。精神分析は患者の悩む能力,悩む容量の拡大を目指しているが,決して悩みそのものを消そうとはしない(藤山直樹)。強制治療に関わるリーガルモデルを進めると脱施設化は進展したが,刑務所に収容される精神障害者が増えた。そのため米国ではパターナリズムの有用性が再評価されている(五十嵐禎人)。病名の告知や医療の必要性についての専門家の無思慮な説明が,「内なる偏見(self stigma)」(患者自身が自分の存在に対して偏見をもつこと)を高めてしまっている(藤井千代)。
また,ロシア精神医学の,脳と高次精神機能に関する力動的理論のわかりやすい解説(鹿島晴雄)や,聴き取りに基づいた医学(narrative-based medicine)についての良い説明(野田文隆),さらに,英国の経験論哲学がその国の精神医療において「疾患単位」より「援助実践」を重視することの思想的基盤になっていることの明示(花村誠一)など,示唆の富む論文を見いだすことができる。精神医学と宗教文化の相補性のこと(島薗 進),今日の精神医学の問題点を歴史の上に跡づける論文(大塚耕太郎)や,米国精神医学会の歴史を辿った明晰な記述(黒木俊秀)など教えられるところが多い。村井俊哉,中根秀之,古茶大樹,樋口輝彦,三好功峰氏らの論文にも,それぞれに味わいがある。
読者によって,関心の強い論文を選んで熟読するのもよし,あるいは全部を通読して精神医学の多面性に一層の目を開かされるのもよい。いくつもの教訓を得られることは間違いない。
この本の標題「精神医学の思想」とは,精神医学を成り立たせている,あるいは隣接している諸科学,特にピアジェのいう「人間科学」の考え方(思想)を展望しようという意味だろうが(そしてそれは見事に成功しているが),それ以上に私には本書の標題が,奇しくも「ひとつの思想としての精神医学」との含意をも匂い立たせているように感じた。
精神科医のみでなく精神医学に関心のあるすべての方々に本書を推薦する。

専門医のための精神科臨床リュミエール 27 精神科領域からみた心身症

専門医のための精神科臨床リュミエール 27 精神科領域からみた心身症 published on

今まさに精神医療が直面している問題の解決への糸口を提示している

精神医学 Vol.54 No.8(2012年8月号) 書評より

評者:尾崎紀夫(名古屋大学大学院医学系研究科精神医学・親と子どもの診療学分野)

心身医学に興味を持ったのは高校生の頃,池見酉次郎先生の「心療内科」(中公新書)を拝読した時に遡る。小説好きから精神分析に興味を持ち始めていた当時,「心療内科」に書かれていた内容,特に症例を中心とした臨床的な話は,大変,魅力的なものであった。両親医師(精神科医ではない)の元で育ったものの,「医学より文学」などと考えていた私に,「臨床医学は興味深い」と思わせる効果を持っていた。その結果,「精神科医か,はたまた心療内科医を目指すべきか」という迷いは生じたが,いずれにせよ,医学部に進むことは間違いのない方向と思えた。
その後,卒後研修医として各科をローテートする2年間を市中の総合病院で過ごした。その間,様々な身体疾患の経過に心理社会的な要素が関与することを目の当たりにしたが,中でも強く関心を持ったのは,腎臓移植であった。1) 免疫抑制のため使われる副腎皮質ステロイドや腎機能障害が脳に与える影響という生物学的次元の問題,2) 本邦で大半を占める生体腎移植に際し,「家族内の誰が腎臓を提供するのか」という問題を巡って生じる家族内葛藤の問題,3) 他者の腎臓が自己の腎臓として身体的にも精神的にも統合される過程が引き起こす自己と他者の問題,などなど。まさに,生物・心理・社会的な問題をはらんでおり,その後の診療,教育,研究に大きなインパクトを与える体験であった。
さて,現在,「5疾病」に精神疾患が組み入れられ,地域医療計画の策定が進みつつあるが,「身体疾患の精神医学的問題」と「精神疾患の身体的問題」を解決することが求められている。その際,必要になるのは,心身医学の目指した全人的医療,「疾患の持つ生物学的な側面だけに着目するのではなく,心理・社会面など多面的な視点で患者をとらえ,患者中心の医療を展開する」という姿勢であろう。一方,前述の問題解決へのニーズは高まっているにもかかわらず,主として取り組むべき総合病院における精神医療の担い手は不足しているのが現状である。
本書は,心身医学と精神医学の関係性について確認した上で,精神医学の立場から心身医学を捉え直し,「心身医学的なアプローチが重要な意義をもつやや広い領域」をカバーしており,今まさに精神医療が直面している問題の解決への糸口を提示している。本書を読んだ医師・医学生が,一人でも多く,総合病院における精神医療に興味を持ち,参画してくれることを願う次第である。
一点,統合失調症や双極性障害は身体疾患を併存することが多く,その治療にあたる必要も多いが,この点を踏まえた章があっても良かったかも知れない。今後の改訂に際しての願いである。

専門医のための精神科臨床リュミエール 23 成人期の広汎性発達障害

専門医のための精神科臨床リュミエール 23 成人期の広汎性発達障害 published on

幅広い臨床の「知と技を磨く」ための一冊

臨床精神医学 Vol.41 No.6(2012年6月号) 書評より

評者:広沢正孝(順天堂大学大学院スポーツ健康科学研究科)

近年、成人の精神科医療の現場で、高機能広汎性発達障害(高機能PDD)は空前の注目を浴びているといっても過言ではなかろう。今ではこの概念の普及は、教育現場や職場のメンタルヘルス場面にも及び、なかにはみずから自閉症やアスペルガー症候群ではないかと疑い、医療現場を訪れる人も出てきた。しかしPDDの概念の急速な発達は、われわれにさまざまな混乱をもたらしていることも確かである。とくにアスペルガー症候群をはじめとする成人の高機能PDDの診断、症状の評価、治療をめぐっては、種々の見解が飛び交い、試行錯誤の状態であるともいえるのが現実であろう。
残念なことに、わが国においては「成人の広汎性発達障害」をさまざまな視点からコンパクトにまとめた成書はほとんど存在しない。その意味で本書は、今日の精神科医療に携わる者が待ち望んでいた一冊ともいえよう。
本書は、『専門医のための精神科臨床リュミエール』の第Ⅲ期シリーズのなかの1冊である。本書が対象としているのは、すでに幼児期・学童期からPDDと診断され、療育や教育的配慮がなされている人たちではなく、成人になるまで気づかれずにいた人たちである。本書の狙いは、その人たちを一般精神科医がどう理解し、どう援助するかにある。
本書は、総論、従来の精神疾患との関連、さまざまな援助、という3部構成になっている。まず第I部の「総論」では、成人期のPDDに関する総説(特徴的な臨床像、発達心理学的理解、診断方法と診断の意味および診断の功罪をめぐる問題、近年臨床場面で遭遇しやすい「発達障害を疑って受診する」人々の臨床的実態と対応方法、生物学的な特徴と最新の知見および長期経過・長期予後)のほか、発達障害者自身による成人期の当障害に関する現象学的解釈(当事者研究)や対人関係・社会文化的見解が述べられていて読み応えがある。
第II部の「従来の精神疾患との関連」では、統合失調症、うつ病、双極性障害、摂食障害、強迫性障害、解離性障害・転換性障害、パーソナリティ障害といった、成人期のPDD者が罹患しやすい精神障害を取り上げ、各分野の日本の代表的な臨床家・研究者が、PDDとの関連を述べている。読者はここで、PDDと各精神障害との合併にまつわる疾病学的な問題、その際PDD者が呈する各障害の非定型像(PDDらしさ)と、各症状の現象学的、精神病理学的ないし人間学的解釈、各障害の経過の特徴や薬物療法をはじめとする治療方法の問題を、深く、かつ整理して学べると思う。さらに多くの項目で詳細な事例が提示されており、おそらく読者は、自身が「一度は出会ったことのある」患者の記述をたよりに、成人のPDD治療の「勘」を育むことができると思う。
第III部の「さまざまな援助」においては、精神科医にとって成人の高機能PDD者に遭遇しやすい場(大学キャンパス、デイケア、総合病院外来など)が設定さて(原文ママ)おり、各場面で観察される彼らの具体的な精神症状や行動特徴、それに対する対応方法(具体的なプログラム)、さらには告知にまつわる具体的な考え方が記載されている。また成人のPDD者に特化した支援方法として、当事者支援、グループ療法、特に当事者グループが取り上げられ、ここでも具体的な事例を通して、われわれが考慮すべき視点が示されている。最後に治療法として薬物療法と精神療法が挙げられ、いずれもベテラン臨床医の具体的な経験が披露されている。
このように本書は、現在の精神科臨床課題である成人のPDDを理解するにあたり、よき道案内者となる。特に専門医として活躍されている精神科医や、これから精神科専門医を目指そうとしている精神科医にとっては、幅広い臨床の「知と技を磨く」ための一冊にもなろう。


われわれが今こそ行うべきことは,腰を据えた臨床である,そんな当たり前なことに気づかせてくれる本

精神医学 Vol.54 No.5(2012年5月号) 書評より

評者:田中 康雄(こころとそだちのクリニック むすびめ / 北海道大学名誉教授)

本書は,『専門医のための精神科臨床リュミエール』第3期の1冊として上梓された。そもそもこのシリーズは,現代精神科臨床のなかで従来の教科書では看過されやすいテーマを最新かつ多面的な視点により掘り下げて論じることで,精神科医としての知と技に一層の磨きをかけることを目的としている。
結論を先取りすると,本書はこの目的を遙かに凌駕したと評者は断言する。
この成功は,ひとえに編者であり執筆陣の要としてご尽力された青木省三氏と村上伸治氏という稀代の名コンビのバランスの取れた臨床感覚の成せる技と直感する。
それは,本書の冒頭を飾る青木論文(「成人期の発達障害について考える」)と,最後を締める村上論文(「私の精神療法的アプローチー広汎性発達障害への精神療法」)をまず読んでいただくことで誤りでないことが分かっていただけるだろう。編者である2人は,ともにこの臨床に登場してきた難問に対し,難しければ難しいだけのやりがいと対策が必ずあることを述べ,ぶれることない臨床家としての姿勢を貫き示す。
タイトルだけで本書を購入すると「成人期の広汎性発達障害」を網羅したものかと思われるだろう。しかし,冒頭から「理解としては発達障害を広くとり,診断としては発達障害を狭くとる」(青木)と述べ,「『広汎性発達障害への精神療法』という課題を突きつけられることで,精神療法がさらに発展していくことを願いたい」(村上)と記される。それぞれの筆者に同意反発したりしながらあれこれ頭を忙しく働かせながら読み終えた評者は,この始まりと終わりによって,精神医学の確固とした普遍性にたどり着いた。その意味で,あまたある類書のなかで,もっとも優れたものであると確信する。
編者に挟まれてなお,輝きを放つ滝川論文(「成人期の広汎性発達障害とは何か」)では,縦断的に発達軸を視野にいれた新たな診断分類とそれを支える臨床眼を鍛えることが強調される。宇野・内山による診断に関する論文では,診断の意義を前にスケープゴート的な診断行為にならぬよう強く諫める。さらに自らを発達障害でないかと疑い受診される成人の方々の現状と危惧について,太田・湯川・加藤論文は日々の実践をもとにその苦労のあとを述べる。ここには昨今の発達障害ブームとも呼べる流れに,冷静に丁寧な精神科臨床を行うべきという当たり前の提案がなされているわけであるが,これほど強調する必要があること自体,この分野における現今の課題であることに気がつく。一方で,それが間違いなく存在するのだという実証を,加藤氏は生物学的研究から論じ,中根氏は長期の経過と予後を示し,綾屋氏とニキ氏という代表的当事者からの言葉で第一部の総論が閉じられる。
続く第二部では,広汎性発達障害に関連する障害として,統合失調症,うつ病,双極性障害,摂食障害,強迫性障害,解離性障害・転換性障害,パーソナリティ障碍が述べられる。タイムスリップ現象とフラッシュバックや解離,緊張病とカタトニアなど,まだ解決されえない症候から改めてこの分野が抱える課題に手がつけきれていないことも明らかとなった。
第三部には大学生を対象とした援助,デイケア論,当事者支援,グループ療法,薬物療法など,手探りながらも構築していこうとする支援論が列挙される。なかでも三好氏の臨床から作り出された手作りの精神病理学を基盤にした治療学は興味深いものである。最後に宮川氏,井原氏,と前述した村上氏の個人精神療法が個々に述べられている。この流れで自家薬籠を開示するのは,非常に勇気がいったと思われ,それぞれに敬意を表したい。
この臨床像が21世紀における精神医学の解体と収束を担っているといっても過言ではないだろう。同時にわれわれが今こそ行うべきことは,腰を据えた臨床である,そんな当たり前なことに気づかせてくれる本である。それだけに,現代精神医学のなかでも必読の一冊としたい。

専門医のための精神科臨床リュミエール 18 職場復帰のノウハウとスキル

専門医のための精神科臨床リュミエール 18 職場復帰のノウハウとスキル published on
日本医事新報 No.4527(2011年1月29日) BOOK REVIEW 書評より

評者:大野裕(慶應義塾大学保健管理センター教授 )

うつ病と自殺の経済損失が年間2兆7000万円になるという試算が厚生労働省から発表された。

うつ病に関しては,うつ病のために仕事を休まざるを得なかった人を対象にしたアブセンティーズム中心の試算であるが,出社はしていてもうつ病のためにパフォーマンスが落ちているいわゆるプレゼンティーズムの経済的損失まで含めると,さらに同じくらいの損失が生じていると推計されるという。しかも,本書のIII章で紹介されている双極性障害やアルコール関連障害,その他の精神疾患まで含めると,その額はさらに膨らむことになる。

このように産業医学においてメンタルヘルスの問題が以前にも増して重要視されるようになってきている中,産業メンタルヘルスに長く積極的にかかわってこられた中村 純先生が編集された本書は,タイトルに示されている通り,そのノウハウとスキルを学ぶために必須の情報が満載の好書である。

本書の特徴は,II章「職場復帰にかかわる医療従事者・人事担当者の役割」,IV章「職場復帰を支援する人と仕組み」を中心に,ネットワークの中で社員の復帰を支援するという視点にあると思う。復職にあたっては,復職前からの準備にはじまり職場に定着して従来通りのパフォーマンスを発揮できるようになるまでの時間的流れの中で,産業医と精神科医,医療従事者と人事労務担当者などがそれぞれの立場から総合的に支援をしていくことが重要になる。

しかし,個々の役割をお互いに理解しながらスムーズな連携ができている企業はきわめて限られている。

その大きな理由を尋ねると,どのような体制を作って,どのような点に留意しながら取り組んでいけばいいか,具体策がわからないからと答える担当者が多い。

本書では,そうした職場復帰のポイントが実に丁寧に具体的に解説されている。職場復帰に携わる専門家はもちろん,非専門家にとっても,多くの実践的なコツを学べる貴重な1冊に仕上がっている。

専門医のための精神科臨床リュミエール 16 脳科学エッセンシャル

専門医のための精神科臨床リュミエール 16 脳科学エッセンシャル published on

集積された脳科学の膨大な知見がまとめられており初学者にも分かりやすい

臨床精神医学 第39巻11号(2010年11月号) 書評より

評者:武田雅俊(大阪大学大学院医学研究科神経機能医学講座精神医学分野)

本年1月初頭のNATURE誌は”A Decade for Psychiaric Disorders”をエディトリアルに掲げて,2010年からの十年間は「精神疾患の解明」が最も重要な課題であることを提唱した。ポストゲノム時代のライフサイエンス全体にとって,精神疾患・行動異常の解明が最重要課題であることをうたったものである。このような時期に,脳科学エッセンシャル―精神疾患の生物学的理解のためにが刊行されたことは,まことに喜ばしい。

集積された脳科学の知見は膨大であり,細かく記載すれば何千ページもの著作になるところを,各項目について2~5ページの範囲でそのエッセンシャルな部分のみについてよくまとめられていることにまず感心した。できるだけ図表を多くして,初学者にも分かりやすいことを目標にして記述された各項目はいずれもよくまとめられている。もちろんテーマによりある程度の難易度のバラつきはあるが,これは限られた紙面でという制約上やむを得ないことではある。

章建ては,五部に分けられている。第I部「中枢神経系の構造と機能」は,精神疾患の理解の基礎として,押さえておきたい中枢神経系の解剖学がその生理的機能を中心にまとめられている。この部分は正直にいってかなり高級な内容も多いので,読者は必ずしも第I部の全部を読了する必要はない。第2部「分子生物学」は,ゲノム,細胞,情報伝達系とに分けて記載されているが,これだけ膨大な内容を系統的にカバーするためには,どうしても一定のページ数が必要となることはいうまでもない。少ない紙面でカバーするためには,ある程度トピックスを拾い上げたという内容にならざるを得ないことはやむを得ない事情であろう。しかしながら,編集者の見識により,精神医学者にとって最も必要なトピックスが選択されているのには感心した。第三部「精神薬理学」においても,今話題となっている精神機能とカルシウムシグナル,イノシトールリン酸系,ニューロステロイド,オレキシン,カンナビノイドなどがとりあげられており,多くの読者にとって勉強になる内容が要領よく記述されている。第四部「神経生理学と脳画像研究」は,もっとページ数があってもよかったのかもしれない。臨床家にとって一番なじみの深い脳波,MRIなどの臨床に即した知見は,取り上げ始めると限りがないが,臨床と脳科学とのブリッジングには欠かせない情報であることも間違いない。第五部「神経心理学と認知科学」は非常に意欲的な内容が並んでいる。それぞれの専門家が脳科学を手段として行動異常・精神症状・精神疾患の神経基盤をどのように考えながら解明しようと研究を重ねてきたかという内容に加えて,今後の精神医学の進むべき方向性についても議論されており,読み応えのある内容が満載されている。

精神疾患の生物学的研究の推進が叫ばれている。今や基礎領域の研究者がこぞって精神疾患を対象とした研究に関与するようになった。本書は,精神科医師を対象として,基礎医学の研究者がなにを明らかにしたかを伝えようとして編まれたものである。その意味では,本書はこれまでの類書とは異なり大きな成功を収めており,精神科医師にとっては役に立つ書物である。さらに編集者の意図を勝手に忖度していえば,本書でまとめられた基礎的な脳科学の知見を基盤にして,臨床家が次にどのような課題を提供できるかを問いかけているのであろう。上記の問いかけに対して,勝手に書評者なりの解答を試みれば,以下のような答えになるのだろう。おそらく精神科医に要求されていることは,これまでの精神医学の歴史が積み上げてきた膨大な臨床的知見を,脳科学者が検討できるような形で提供することであろう。精神科医には臨床の場から適切に整理された研究課題の提案が求められているのであろう。

精神疾患を対象とした研究に取り組む際には,これまで基礎医学を区分していた,解剖学・生理学・生化学・遺伝学・薬理学などといった学問体系の区分は必要ではない。精神症状あるいは動物の行動異常をどのようなパラメータで表記して,どのような神経回路の異常,細胞の異常,蛋白の異常,遺伝子の異常に落とし込むかは,その課題により大きく異なることが考えられる。本書を読んだ精神科医師には,これからの基礎研究の方向性を正しく導くような知見を提出できるようになってほしいものである。そのようなリサーチマインドを持った精神科医師にとっても,本書は大きな意味を持っている。


読めば収穫多き「旅」ができる 内容豊富な精神医学テキスト

精神医学 52巻12号(2010年12月号) 書評より

評者:倉知正佳(富山大学本部)

本書の序文にも書かれているように,近年の脳科学は長足の進歩を示し,主要な精神疾患の生物学的背景についての解明が進んでいる。精神科専門医は,これらの脳科学の進歩について継続的に理解していくことが必要である。そのためには,適切なテキストがあることが望まれる。このようなニーズに応えるために編集されたのが本書である。

本書は,I. 中枢神経系の構造と機能,II. 分子生物学,III. 精神薬理学,IV. 神経生理学と脳画像研究,V. 神経心理学と認知科学の5領域で,合計92項目から構成されている。各項目について,基本から先端的なことまで,臨床とのつながりを含めて第一線の研究者によりわかりやすく解説されている。各項目は見開き2~4頁で,図表も多い。

その項目の一部を紹介すると,たとえば,近年,精神医学で話題になっているエピジェネティクスについては,「エピジェネティクスとうつ病」(pp152~154)を開くとよい。すると,DNA塩基配列の変化を伴わなくても,ヒストンのアセチル化やDNAのメチル化によってクロマチンの立体構造が変化し,遺伝子発現が促進されたり抑制されたりすること,抗うつ薬や電気けいれん療法は,ヒストンのアセチル化を介してBDNF(脳由来神経栄養因子)の発現を亢進させる可能性が示唆されている。

本書の読み方としては,関連した項目を読み進むという方法もある。たとえば,情動の脳科学については,まず「島皮質と感情」(pp12~14)を開くと,島の解剖と機能仮説,不安症状時に島皮質が賦活されること,島皮質体積の減少は統合失調症の発症前後で進行することが述べられている。次いで「帯状皮質と情動」(pp105~106)へ進むと,前部帯状皮質は,扁桃体に抑制的に働き,その破綻によりPTSD(心的外傷後ストレス障害)における恐怖反応が説明されること,「扁桃体と恐怖の学習」(pp36~38)では,前頭葉による扁桃体機能の調整,そして,SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)の抗不安作用の脳内作用部位が情動中枢としての扁桃体である可能性が説明されている。
「表情認知の神経回路」(pp39~42)では,表情,視線方向の認知における扁桃体の役割と,各種精神障害の表情認知障害の特徴が説明され,「社会脳」(pp288~290)では,統合失調症と気分障害における社会認知の障害が詳しく述べられ,「ミラーニューロンと共感」(pp291~292)では,ミラーニューロンシステム(Broca野後部,上側頭構,下頭頭構)と心の理論や共感との関連が説明されている。「オキシトシンと自閉症」(pp201~202)では,自閉症児のオキシトシン血漿濃度が対照と比較して約半分と有意に低く,モデル動物では,オキシトシンの補充により社会的認知が改善することが述べられている。

以上の例はごく一部であり,このようにして読者は,生物学的精神医学において収穫の多い「旅」をすることができる。本書は,精神疾患の脳科学について,国際的にも珍しいほど内容豊富なテキストであり,精神科医をはじめ,精神医学を学ぶ方々の座右の書として強くお奨めしたい。

精神療法と薬物療法のほどよいブレンド

精神療法と薬物療法のほどよいブレンド published on

多くの臨床家にぜひお勧めしたい良書

精神療法 Vol.38 No.6(2012年12月号) 書評より

評者:上島国利(国際医療福祉大学)

本書の構成は「精神科治療における基本姿勢」から始まり,「薬物療法の特殊性」「薬物療法の効果を高める精神療法」「精神療法の一部としての薬物療法」「さまざまな場合への対処法」「疾患別私の薬物療法」「Q&A」から成り立っている。
まず著者自身の精神科治療の基本姿勢が三つの理論的テーゼと三つの実践的テーゼという形で明確にされ議論がすすむ。
著者は精神療法と薬物療法を臨床で併用する際には,精神病理学の深く幅広い素養と,認識論と臨床医としての価値観を堅持しながら,現実的な範囲でのほどよいブレンドを勧めている。
本書で一貫しているのは,科学的で批判的な態度に留意しながら。薬を生かして治療全体を考える著者の姿勢である。しかしその姿勢の延長上には生活者である患者の状況に常に配慮し,治療が円滑に進むよう工夫されている。それらの工夫は,異なる臨床現場で長年の経験を積んだ著者の極意であり知恵でありまた全篇を通じて感じられる患者に対する思いやり,やさしさである。
「さまざまな場合への対処法」「疾患別,私の薬物療法」「Q&A」の各章では,臨床的,現実的,実際的問題が解説されているが,薬物の効果,副作用を絶対視しないで,相対主義的な総合判断で飾らず正直に臨む立場が窺われる。それぞれが個人的にも総て納得できる解説であるが,その根底には豊富な臨床経験に裏打ちされた自信や深い洞察が秘められている。
幾つかの例をあげれば,統合失調症の慢性期の外来では,細々とした病状をたずねない「聞かないやさしさ」が必要であるという。双極性障害のうつ病相に対する抗うつ薬の投与についても,柔軟性を持ち,必要に応じては使用することも認めている。パニック障害の治療に関してもまず抗不安薬で対処し,十分な効果が得られないときにSSRIを用いるべきであるという。
総じてある程度の臨床経験を重ねたわれわれ精神科医の日常臨床について,本書にはわかり易く言語化がされており,研修医への指導書として,すぐれているのみならず,ベテラン医にとっても自己の日常臨床についての再確認そして保証の役目をしている。
かつてコンプライアンス,昨今はアドヒアランスという用語で,医師と患者が互いに相談し納得しながら薬物療法を維持することにより再発再燃を防止することの重要性が叫ばれている。私自身もアドヒアランス向上のための方策を啓発してきた。しかしながら本書においてはそれらの用語は一切登場しない。著者が,やや強制的に服薬指示遵守を強いるコンプライアンスの用語を避けているようにも思えるが,本書を通読すると,そのような用語を用いなくても,薬物療法と精神療法のほどよいブレンドにより,円滑かつ効果的に治療が進み効果的薬物療法の遂行ができることがわかる。
半世紀以上前に「心身症・心身医学」の概念が導入された際に,総ての医療者が各疾患に対して精神面からのアプローチの重要性を認識し実践することが日常的になれば,最終的には「心身医学」は消滅するといわれた。「アドヒアランス」の概念も薬物療法と精神療法のブレンドしたアプローチが一般的になることにより消滅することになりそうである。多くの臨床家にぜひお勧めしたい良書である。

精神疾患の脳画像ケースカンファレンス

精神疾患の脳画像ケースカンファレンス published on

「診断法を改変しよう」との意志が強く感じられる

精神医学 Vol.56 No.12(2014年12月号) 書評より

書評者:尾崎紀夫(名古屋大学大学院医学系研究科精神医学・親と子どもの診療学分野)

担当医が,患者さんの状態についてご本人やご家族に説明する際,検査データや画像を示すのが一般的であるが,多くの精神疾患においては,当てはまらない。
米国国立精神保健研究所(NIMH)のDirector,Tom Insel は,DSM-5発表に際し,「従来一般的であった症状に基づく診断法は,この半世紀,他の医学領域ではすっかり置き換えられた。ところが,DSMの診断は,客観的な検査所見によらず,臨床症状に基づいてなされる状態が続いている。NIMHは診断法を改変すべく,Research Domain Criteria(RDoC)projectを開始した」と,DSM-5に対する不満を表明すると同時に,精神疾患においても検査所見により診断できることを目指すと言明している(Transforming Diagnosis : Director’s Blog April 29, 2013)。
他の精神科医療機関で「うつ病」と診断されたが,産後うつ病のご本人は納得がいかず,産婦人科医に紹介されて筆者の初診となった患者は,「検査で数値が出るわけでもないのに,どうして私がうつ病と言えるのか」と話していた。否定的な捉え方が前景に出ているうつ病の治療導入時は,関係性の構築に十分配慮しながら,うつ病と治療について説明し,治療合意に至ることが重要である。うつ病について説明する際,患者の本来とは異なる否定的な捉え方を中心におくと,ある程度本人にも受け入れられる。その上で,「脳が機能不全に陥った結果,(脳が決める)捉え方が否定的になっている」との説明を加えているが,今のところ,脳の検査所見を示すわけにはいかない。
本書,『精神疾患の脳画像ケースカンファレンス』は,CT,MRI,SPECT,PET,NIRSといった多様な脳の構造・機能画像,さらには生理検査であるEEG,MEG,ERPの基本的な特徴が詳述された上で,症例を提示して諸々の検査所見が記載されている。「ケースカンファレンス」の部分が魅力的であるからといって,読者は前半を読み飛ばすことのないようにしていただきたい。精神科医は,症例について語ること,読むことは好きだが,画像・生理検査の原理はブラックボックスのまま,という状況を熟知した編者の配慮である。さらに,現状,多数例で漸く有意差を得ることができるレベルで,DSM-5でも未だ診断基準には取り入れられていない脳画像所見が,個々の症例において検討されている点から,著者たちの「診断法を改変しよう」との意志が強く感じられる。
一方,精神科鑑別診断の手順は,「一般身体疾患による精神障害」から始めることは,「外因性精神疾患」の時代からDSM-5になった今でも変わらない。本書の症例部分の順番では,「一般身体疾患による精神障害」が最後になっている。精神科鑑別診断の手順にならい,脳画像所見が明らかなものを学び,その上で,未だ議論の途上にある精神疾患に関しても脳画像の有用性について検討する,という順にしても良かったように思う。
「医療機関からどのような説明があったか」を,統合失調症の当事者に尋ねると,「病気・病態についての説明」は44%にとどまっていた(『統合失調症の人が知っておくべきこと』NPO法人コンボ編:2013)。この説明を受ける率の低さに,「精神疾患の場合,検査データや画像を示して説明できない」ということも関係しているのではないだろうか。
脳画像所見が,「病気・病態についての説明」に使える時代になるべく,著者諸兄の一層のご努力を期待したい。