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外来精神科診療シリーズ メンタルクリニックでの主要な精神疾患への対応 [2] 不安障害,ストレス関連障害,身体表現性障害・嗜癖症,パーソナリティ障害

外来精神科診療シリーズ メンタルクリニックでの主要な精神疾患への対応 [2] 不安障害,ストレス関連障害,身体表現性障害・嗜癖症,パーソナリティ障害 published on
精神医学 59巻11号(2017年11月号)「書評」より

評者:神田橋條治(伊敷病院)

「よの中に交わらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる」(良寛)。いのちにとって「閉ざす」ことが必然です。そのなかで成長と熟成が進みます。「開く」は,成長と熟成とに寄与する次の策です。「閉ざす」自体が損なわれるといのちが自立性を失います。文化も同じです。開化期の先人たちは,「攘夷」という被害妄想のかわりに「和魂洋才」との心構えをもつことで,「鎖国」のなかで熟成してきた日本文化を守りました。当時の被植民地諸国の見聞からの知恵だったのでしょう。からだ→こころ→魂と並べたとき,その順に「閉ざす」が大切になります。「魂だけは売り渡さない」はさまざまな極限状況で現れる決意です。「身は売っても思いは主さまだけのもの」との遊女の覚悟もそのひとつです。魂を守る決意には切ない気分があります。グローバル化の流れやAIの発展がこころの領域にまで支配を広げてきたので,切なさは日常に瀰漫してきました。最近の奇妙な社会現象の多くを,切なさへの対処行動,せめて魂だけは守ろうとする工夫,として眺めると腑に落ちる気分が湧きます。
精神科臨床を選択した人々の多くは,からだ→こころ→魂の総合体を援助する志向を持っています。いのちの鎖国文化を援助したいとの意図を持つ資質です。いずれが先かは微妙ですが,我が内なる鎖国文化を維持し熟成したいとの志向と互いに響き合います。「わたしの精神医学」です。内なる鎖国文化が形を現し,幾つかの援助手技を手に入れた人は,クリニックを立ち上げます。鎖国環境の設定です。精神科臨床のロマンですから,当然の流れです。
グローバル化の奔流がロマンを壊し始めました。診断の領域での世界標準化すなわちDSMと援助手技の領域でのEBMです。診断については,表向きのDSMを尊重しながら援助作業においてはわたしの内なる精神医学を用いるという二重帳簿で凌ぐことができます。しかもそれは精神科を選んだ資質の中にある,裏世界嗜好を充たしさえします。深刻なのは援助手技についてです。中でも精神薬物療法については甚大です。手持ちの援助手技の中で薬物を主な手立てにしている治療者は,洋才に侵食されて魂の危機にあります。
ところで「エビデンス」なるものの成立過程を眺めてみると,それは正規分布の両端を切り捨てて作った「多数決」の成果です。多数決が参考資料以上の力を持つと薄っぺらな全体主義の本流を形成し少数者切り捨てに至ることはすべての世界で具現されています。この気分が医療を覆うようになると,「少数者への援助」という医療の原点が失われ,医学は疫学になります。珍しい疾患の見落としや頻度の稀な重大な副作用の見落としとして臨床現場で現れています。臨床は五感と第六感とを総動員して行うアートです。魂の営みです。その営みからの経験が各人の体験として刻み込まれて鎖国文化の中の「わたしのエビデンス」となっています。職人の「勘どころ」です。
薬物については事態はさらに深刻です。科学主義・客観化に根ざしているからです。これに侵食されて「薬物依存」「薬物乱用」風医療になってしまっている治療者はすべての医療分野に蔓延しています。向精神薬については,からだ(脳)への作用に限って客観化が行われ,しかも関連する変数を極力少なくするという科学実験の原則に沿ってエビデンスが得られています。その判定はこころの変化,しかも辛うじて有意差が出る程度の微かな多数決のデータです。現場では個体を共同研究者にして,その主観的判断(こころ→魂)を組み込みながら処方を決めて,テーラーメイドのエビデンスを積み上げていくのが医療です。
皆さん気づいておられますか? わたしたちは分担執筆で編纂された全書の類を購入しても,たまに参照するだけでおおかたは本棚の肥やしになっています。折に触れてページをめくるのは単著です。単著による精神医学教科書はしばしば座右の書になります。信者になっているわけではありません。その著者のなかで熟成した鎖国文化に触れることで自分の鎖国文化を省みる欲求ゆえです。このシリーズは分担執筆であるけど分担執筆ではありません。五人の「野武士」の方々が,精神医療の現状への危機感から立ち上げたシリーズです。野武士とは,鹿鳴館の賑わいを横目に見ながらも,自らの鎖国文化を育成し,それに支えられて「開く」が自在になり,被害感なしに,DSMやEBMの有用なところは取り入れて成長と成熟を歩み続けている人の謂です。「和魂洋才」です。シリーズは全10冊からなっており,最後の巻にシリーズ全体の執筆者一覧が載ります。野武士五人の方々の論述はもちろんですが,その他にも多くの方が複数の論述を寄稿しておられ,それらを縦断して読むことで多種多様な鎖国文化に触れることになります。単著の乱舞です。全10冊が医局の本棚にあると,ベテランの精神科医にとってはさまざまな鎖国文化を批判的に読むことができます。そのことはとりもなおさず自らの鎖国文化を省みる作業になります。歩きはじめの精神科医にとっては,自分の未来にさまざまの道が開けていることが見えて,こころと魂が定まります。なかにはどの道も自分の資質と馴染まないと分かって,脳科学の方向を選ぶかたもありましょう。それもまた素晴らしい選択です。
最後に,このシリーズには当事者の寄稿もあります。なかでも小石川真実という方の二本の論文「『患者を良くする』ことを念頭においた診断を」(診断の技と工夫 214頁)「本気でわかろうとしてくれる人が一人でもいると患者は立ち直れる」(精神療法の技と工夫 226頁)を是非お読みください。標準化とEBMの「洋才」に浮かれた被植民地化された精神科臨床でからだもこころもモミクチャにされながらも,辛うじて魂だけは守り抜いた人の「叫び」です。「わたしならどうするか?」と自問して下さい。魂までも毀損された「声なき声」が現場に溢れておりテーラーメイドの援助で叫びが蘇る経験は非医師の報告に散見します。
最近注目をあびている「オープンダイアローグ」という手法は見かけとは逆に,その個体独自の鎖国文化の回復が本質です。そう考えると,あの目を見張る効果が腑に落ちます。

外来精神科診療シリーズ メンタルクリニックでの主要な精神疾患への対応 [1] 発達障害,児童・思春期,てんかん,睡眠障害,認知症

外来精神科診療シリーズ メンタルクリニックでの主要な精神疾患への対応 [1] 発達障害,児童・思春期,てんかん,睡眠障害,認知症 published on
精神医学 59巻11号(2017年11月号)「書評」より

評者:神田橋條治(伊敷病院)

「よの中に交わらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる」(良寛)。いのちにとって「閉ざす」ことが必然です。そのなかで成長と熟成が進みます。「開く」は,成長と熟成とに寄与する次の策です。「閉ざす」自体が損なわれるといのちが自立性を失います。文化も同じです。開化期の先人たちは,「攘夷」という被害妄想のかわりに「和魂洋才」との心構えをもつことで,「鎖国」のなかで熟成してきた日本文化を守りました。当時の被植民地諸国の見聞からの知恵だったのでしょう。からだ→こころ→魂と並べたとき,その順に「閉ざす」が大切になります。「魂だけは売り渡さない」はさまざまな極限状況で現れる決意です。「身は売っても思いは主さまだけのもの」との遊女の覚悟もそのひとつです。魂を守る決意には切ない気分があります。グローバル化の流れやAIの発展がこころの領域にまで支配を広げてきたので,切なさは日常に瀰漫してきました。最近の奇妙な社会現象の多くを,切なさへの対処行動,せめて魂だけは守ろうとする工夫,として眺めると腑に落ちる気分が湧きます。
精神科臨床を選択した人々の多くは,からだ→こころ→魂の総合体を援助する志向を持っています。いのちの鎖国文化を援助したいとの意図を持つ資質です。いずれが先かは微妙ですが,我が内なる鎖国文化を維持し熟成したいとの志向と互いに響き合います。「わたしの精神医学」です。内なる鎖国文化が形を現し,幾つかの援助手技を手に入れた人は,クリニックを立ち上げます。鎖国環境の設定です。精神科臨床のロマンですから,当然の流れです。
グローバル化の奔流がロマンを壊し始めました。診断の領域での世界標準化すなわちDSMと援助手技の領域でのEBMです。診断については,表向きのDSMを尊重しながら援助作業においてはわたしの内なる精神医学を用いるという二重帳簿で凌ぐことができます。しかもそれは精神科を選んだ資質の中にある,裏世界嗜好を充たしさえします。深刻なのは援助手技についてです。中でも精神薬物療法については甚大です。手持ちの援助手技の中で薬物を主な手立てにしている治療者は,洋才に侵食されて魂の危機にあります。
ところで「エビデンス」なるものの成立過程を眺めてみると,それは正規分布の両端を切り捨てて作った「多数決」の成果です。多数決が参考資料以上の力を持つと薄っぺらな全体主義の本流を形成し少数者切り捨てに至ることはすべての世界で具現されています。この気分が医療を覆うようになると,「少数者への援助」という医療の原点が失われ,医学は疫学になります。珍しい疾患の見落としや頻度の稀な重大な副作用の見落としとして臨床現場で現れています。臨床は五感と第六感とを総動員して行うアートです。魂の営みです。その営みからの経験が各人の体験として刻み込まれて鎖国文化の中の「わたしのエビデンス」となっています。職人の「勘どころ」です。
薬物については事態はさらに深刻です。科学主義・客観化に根ざしているからです。これに侵食されて「薬物依存」「薬物乱用」風医療になってしまっている治療者はすべての医療分野に蔓延しています。向精神薬については,からだ(脳)への作用に限って客観化が行われ,しかも関連する変数を極力少なくするという科学実験の原則に沿ってエビデンスが得られています。その判定はこころの変化,しかも辛うじて有意差が出る程度の微かな多数決のデータです。現場では個体を共同研究者にして,その主観的判断(こころ→魂)を組み込みながら処方を決めて,テーラーメイドのエビデンスを積み上げていくのが医療です。
皆さん気づいておられますか? わたしたちは分担執筆で編纂された全書の類を購入しても,たまに参照するだけでおおかたは本棚の肥やしになっています。折に触れてページをめくるのは単著です。単著による精神医学教科書はしばしば座右の書になります。信者になっているわけではありません。その著者のなかで熟成した鎖国文化に触れることで自分の鎖国文化を省みる欲求ゆえです。このシリーズは分担執筆であるけど分担執筆ではありません。五人の「野武士」の方々が,精神医療の現状への危機感から立ち上げたシリーズです。野武士とは,鹿鳴館の賑わいを横目に見ながらも,自らの鎖国文化を育成し,それに支えられて「開く」が自在になり,被害感なしに,DSMやEBMの有用なところは取り入れて成長と成熟を歩み続けている人の謂です。「和魂洋才」です。シリーズは全10冊からなっており,最後の巻にシリーズ全体の執筆者一覧が載ります。野武士五人の方々の論述はもちろんですが,その他にも多くの方が複数の論述を寄稿しておられ,それらを縦断して読むことで多種多様な鎖国文化に触れることになります。単著の乱舞です。全10冊が医局の本棚にあると,ベテランの精神科医にとってはさまざまな鎖国文化を批判的に読むことができます。そのことはとりもなおさず自らの鎖国文化を省みる作業になります。歩きはじめの精神科医にとっては,自分の未来にさまざまの道が開けていることが見えて,こころと魂が定まります。なかにはどの道も自分の資質と馴染まないと分かって,脳科学の方向を選ぶかたもありましょう。それもまた素晴らしい選択です。
最後に,このシリーズには当事者の寄稿もあります。なかでも小石川真実という方の二本の論文「『患者を良くする』ことを念頭においた診断を」(診断の技と工夫 214頁)「本気でわかろうとしてくれる人が一人でもいると患者は立ち直れる」(精神療法の技と工夫 226頁)を是非お読みください。標準化とEBMの「洋才」に浮かれた被植民地化された精神科臨床でからだもこころもモミクチャにされながらも,辛うじて魂だけは守り抜いた人の「叫び」です。「わたしならどうするか?」と自問して下さい。魂までも毀損された「声なき声」が現場に溢れておりテーラーメイドの援助で叫びが蘇る経験は非医師の報告に散見します。
最近注目をあびている「オープンダイアローグ」という手法は見かけとは逆に,その個体独自の鎖国文化の回復が本質です。そう考えると,あの目を見張る効果が腑に落ちます。

外来精神科診療シリーズ 精神療法の技と工夫

外来精神科診療シリーズ 精神療法の技と工夫 published on
精神医学 59巻11号(2017年11月号)「書評」より

評者:神田橋條治(伊敷病院)

「よの中に交わらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる」(良寛)。いのちにとって「閉ざす」ことが必然です。そのなかで成長と熟成が進みます。「開く」は,成長と熟成とに寄与する次の策です。「閉ざす」自体が損なわれるといのちが自立性を失います。文化も同じです。開化期の先人たちは,「攘夷」という被害妄想のかわりに「和魂洋才」との心構えをもつことで,「鎖国」のなかで熟成してきた日本文化を守りました。当時の被植民地諸国の見聞からの知恵だったのでしょう。からだ→こころ→魂と並べたとき,その順に「閉ざす」が大切になります。「魂だけは売り渡さない」はさまざまな極限状況で現れる決意です。「身は売っても思いは主さまだけのもの」との遊女の覚悟もそのひとつです。魂を守る決意には切ない気分があります。グローバル化の流れやAIの発展がこころの領域にまで支配を広げてきたので,切なさは日常に瀰漫してきました。最近の奇妙な社会現象の多くを,切なさへの対処行動,せめて魂だけは守ろうとする工夫,として眺めると腑に落ちる気分が湧きます。
精神科臨床を選択した人々の多くは,からだ→こころ→魂の総合体を援助する志向を持っています。いのちの鎖国文化を援助したいとの意図を持つ資質です。いずれが先かは微妙ですが,我が内なる鎖国文化を維持し熟成したいとの志向と互いに響き合います。「わたしの精神医学」です。内なる鎖国文化が形を現し,幾つかの援助手技を手に入れた人は,クリニックを立ち上げます。鎖国環境の設定です。精神科臨床のロマンですから,当然の流れです。
グローバル化の奔流がロマンを壊し始めました。診断の領域での世界標準化すなわちDSMと援助手技の領域でのEBMです。診断については,表向きのDSMを尊重しながら援助作業においてはわたしの内なる精神医学を用いるという二重帳簿で凌ぐことができます。しかもそれは精神科を選んだ資質の中にある,裏世界嗜好を充たしさえします。深刻なのは援助手技についてです。中でも精神薬物療法については甚大です。手持ちの援助手技の中で薬物を主な手立てにしている治療者は,洋才に侵食されて魂の危機にあります。
ところで「エビデンス」なるものの成立過程を眺めてみると,それは正規分布の両端を切り捨てて作った「多数決」の成果です。多数決が参考資料以上の力を持つと薄っぺらな全体主義の本流を形成し少数者切り捨てに至ることはすべての世界で具現されています。この気分が医療を覆うようになると,「少数者への援助」という医療の原点が失われ,医学は疫学になります。珍しい疾患の見落としや頻度の稀な重大な副作用の見落としとして臨床現場で現れています。臨床は五感と第六感とを総動員して行うアートです。魂の営みです。その営みからの経験が各人の体験として刻み込まれて鎖国文化の中の「わたしのエビデンス」となっています。職人の「勘どころ」です。
薬物については事態はさらに深刻です。科学主義・客観化に根ざしているからです。これに侵食されて「薬物依存」「薬物乱用」風医療になってしまっている治療者はすべての医療分野に蔓延しています。向精神薬については,からだ(脳)への作用に限って客観化が行われ,しかも関連する変数を極力少なくするという科学実験の原則に沿ってエビデンスが得られています。その判定はこころの変化,しかも辛うじて有意差が出る程度の微かな多数決のデータです。現場では個体を共同研究者にして,その主観的判断(こころ→魂)を組み込みながら処方を決めて,テーラーメイドのエビデンスを積み上げていくのが医療です。
皆さん気づいておられますか? わたしたちは分担執筆で編纂された全書の類を購入しても,たまに参照するだけでおおかたは本棚の肥やしになっています。折に触れてページをめくるのは単著です。単著による精神医学教科書はしばしば座右の書になります。信者になっているわけではありません。その著者のなかで熟成した鎖国文化に触れることで自分の鎖国文化を省みる欲求ゆえです。このシリーズは分担執筆であるけど分担執筆ではありません。五人の「野武士」の方々が,精神医療の現状への危機感から立ち上げたシリーズです。野武士とは,鹿鳴館の賑わいを横目に見ながらも,自らの鎖国文化を育成し,それに支えられて「開く」が自在になり,被害感なしに,DSMやEBMの有用なところは取り入れて成長と成熟を歩み続けている人の謂です。「和魂洋才」です。シリーズは全10冊からなっており,最後の巻にシリーズ全体の執筆者一覧が載ります。野武士五人の方々の論述はもちろんですが,その他にも多くの方が複数の論述を寄稿しておられ,それらを縦断して読むことで多種多様な鎖国文化に触れることになります。単著の乱舞です。全10冊が医局の本棚にあると,ベテランの精神科医にとってはさまざまな鎖国文化を批判的に読むことができます。そのことはとりもなおさず自らの鎖国文化を省みる作業になります。歩きはじめの精神科医にとっては,自分の未来にさまざまの道が開けていることが見えて,こころと魂が定まります。なかにはどの道も自分の資質と馴染まないと分かって,脳科学の方向を選ぶかたもありましょう。それもまた素晴らしい選択です。
最後に,このシリーズには当事者の寄稿もあります。なかでも小石川真実という方の二本の論文「『患者を良くする』ことを念頭においた診断を」(診断の技と工夫 214頁)「本気でわかろうとしてくれる人が一人でもいると患者は立ち直れる」(精神療法の技と工夫 226頁)を是非お読みください。標準化とEBMの「洋才」に浮かれた被植民地化された精神科臨床でからだもこころもモミクチャにされながらも,辛うじて魂だけは守り抜いた人の「叫び」です。「わたしならどうするか?」と自問して下さい。魂までも毀損された「声なき声」が現場に溢れておりテーラーメイドの援助で叫びが蘇る経験は非医師の報告に散見します。
最近注目をあびている「オープンダイアローグ」という手法は見かけとは逆に,その個体独自の鎖国文化の回復が本質です。そう考えると,あの目を見張る効果が腑に落ちます。

外来精神科診療シリーズ 診断の技と工夫

外来精神科診療シリーズ 診断の技と工夫 published on
精神医学 59巻11号(2017年11月号)「書評」より

評者:神田橋條治(伊敷病院)

「よの中に交わらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる」(良寛)。いのちにとって「閉ざす」ことが必然です。そのなかで成長と熟成が進みます。「開く」は,成長と熟成とに寄与する次の策です。「閉ざす」自体が損なわれるといのちが自立性を失います。文化も同じです。開化期の先人たちは,「攘夷」という被害妄想のかわりに「和魂洋才」との心構えをもつことで,「鎖国」のなかで熟成してきた日本文化を守りました。当時の被植民地諸国の見聞からの知恵だったのでしょう。からだ→こころ→魂と並べたとき,その順に「閉ざす」が大切になります。「魂だけは売り渡さない」はさまざまな極限状況で現れる決意です。「身は売っても思いは主さまだけのもの」との遊女の覚悟もそのひとつです。魂を守る決意には切ない気分があります。グローバル化の流れやAIの発展がこころの領域にまで支配を広げてきたので,切なさは日常に瀰漫してきました。最近の奇妙な社会現象の多くを,切なさへの対処行動,せめて魂だけは守ろうとする工夫,として眺めると腑に落ちる気分が湧きます。
精神科臨床を選択した人々の多くは,からだ→こころ→魂の総合体を援助する志向を持っています。いのちの鎖国文化を援助したいとの意図を持つ資質です。いずれが先かは微妙ですが,我が内なる鎖国文化を維持し熟成したいとの志向と互いに響き合います。「わたしの精神医学」です。内なる鎖国文化が形を現し,幾つかの援助手技を手に入れた人は,クリニックを立ち上げます。鎖国環境の設定です。精神科臨床のロマンですから,当然の流れです。
グローバル化の奔流がロマンを壊し始めました。診断の領域での世界標準化すなわちDSMと援助手技の領域でのEBMです。診断については,表向きのDSMを尊重しながら援助作業においてはわたしの内なる精神医学を用いるという二重帳簿で凌ぐことができます。しかもそれは精神科を選んだ資質の中にある,裏世界嗜好を充たしさえします。深刻なのは援助手技についてです。中でも精神薬物療法については甚大です。手持ちの援助手技の中で薬物を主な手立てにしている治療者は,洋才に侵食されて魂の危機にあります。
ところで「エビデンス」なるものの成立過程を眺めてみると,それは正規分布の両端を切り捨てて作った「多数決」の成果です。多数決が参考資料以上の力を持つと薄っぺらな全体主義の本流を形成し少数者切り捨てに至ることはすべての世界で具現されています。この気分が医療を覆うようになると,「少数者への援助」という医療の原点が失われ,医学は疫学になります。珍しい疾患の見落としや頻度の稀な重大な副作用の見落としとして臨床現場で現れています。臨床は五感と第六感とを総動員して行うアートです。魂の営みです。その営みからの経験が各人の体験として刻み込まれて鎖国文化の中の「わたしのエビデンス」となっています。職人の「勘どころ」です。
薬物については事態はさらに深刻です。科学主義・客観化に根ざしているからです。これに侵食されて「薬物依存」「薬物乱用」風医療になってしまっている治療者はすべての医療分野に蔓延しています。向精神薬については,からだ(脳)への作用に限って客観化が行われ,しかも関連する変数を極力少なくするという科学実験の原則に沿ってエビデンスが得られています。その判定はこころの変化,しかも辛うじて有意差が出る程度の微かな多数決のデータです。現場では個体を共同研究者にして,その主観的判断(こころ→魂)を組み込みながら処方を決めて,テーラーメイドのエビデンスを積み上げていくのが医療です。
皆さん気づいておられますか? わたしたちは分担執筆で編纂された全書の類を購入しても,たまに参照するだけでおおかたは本棚の肥やしになっています。折に触れてページをめくるのは単著です。単著による精神医学教科書はしばしば座右の書になります。信者になっているわけではありません。その著者のなかで熟成した鎖国文化に触れることで自分の鎖国文化を省みる欲求ゆえです。このシリーズは分担執筆であるけど分担執筆ではありません。五人の「野武士」の方々が,精神医療の現状への危機感から立ち上げたシリーズです。野武士とは,鹿鳴館の賑わいを横目に見ながらも,自らの鎖国文化を育成し,それに支えられて「開く」が自在になり,被害感なしに,DSMやEBMの有用なところは取り入れて成長と成熟を歩み続けている人の謂です。「和魂洋才」です。シリーズは全10冊からなっており,最後の巻にシリーズ全体の執筆者一覧が載ります。野武士五人の方々の論述はもちろんですが,その他にも多くの方が複数の論述を寄稿しておられ,それらを縦断して読むことで多種多様な鎖国文化に触れることになります。単著の乱舞です。全10冊が医局の本棚にあると,ベテランの精神科医にとってはさまざまな鎖国文化を批判的に読むことができます。そのことはとりもなおさず自らの鎖国文化を省みる作業になります。歩きはじめの精神科医にとっては,自分の未来にさまざまの道が開けていることが見えて,こころと魂が定まります。なかにはどの道も自分の資質と馴染まないと分かって,脳科学の方向を選ぶかたもありましょう。それもまた素晴らしい選択です。
最後に,このシリーズには当事者の寄稿もあります。なかでも小石川真実という方の二本の論文「『患者を良くする』ことを念頭においた診断を」(診断の技と工夫 214頁)「本気でわかろうとしてくれる人が一人でもいると患者は立ち直れる」(精神療法の技と工夫 226頁)を是非お読みください。標準化とEBMの「洋才」に浮かれた被植民地化された精神科臨床でからだもこころもモミクチャにされながらも,辛うじて魂だけは守り抜いた人の「叫び」です。「わたしならどうするか?」と自問して下さい。魂までも毀損された「声なき声」が現場に溢れておりテーラーメイドの援助で叫びが蘇る経験は非医師の報告に散見します。
最近注目をあびている「オープンダイアローグ」という手法は見かけとは逆に,その個体独自の鎖国文化の回復が本質です。そう考えると,あの目を見張る効果が腑に落ちます。

外来精神科診療シリーズ メンタルクリニックでの薬物療法・身体療法の進め方

外来精神科診療シリーズ メンタルクリニックでの薬物療法・身体療法の進め方 published on
精神医学 59巻11号(2017年11月号)「書評」より

評者:神田橋條治(伊敷病院)

「よの中に交わらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる」(良寛)。いのちにとって「閉ざす」ことが必然です。そのなかで成長と熟成が進みます。「開く」は,成長と熟成とに寄与する次の策です。「閉ざす」自体が損なわれるといのちが自立性を失います。文化も同じです。開化期の先人たちは,「攘夷」という被害妄想のかわりに「和魂洋才」との心構えをもつことで,「鎖国」のなかで熟成してきた日本文化を守りました。当時の被植民地諸国の見聞からの知恵だったのでしょう。からだ→こころ→魂と並べたとき,その順に「閉ざす」が大切になります。「魂だけは売り渡さない」はさまざまな極限状況で現れる決意です。「身は売っても思いは主さまだけのもの」との遊女の覚悟もそのひとつです。魂を守る決意には切ない気分があります。グローバル化の流れやAIの発展がこころの領域にまで支配を広げてきたので,切なさは日常に瀰漫してきました。最近の奇妙な社会現象の多くを,切なさへの対処行動,せめて魂だけは守ろうとする工夫,として眺めると腑に落ちる気分が湧きます。
精神科臨床を選択した人々の多くは,からだ→こころ→魂の総合体を援助する志向を持っています。いのちの鎖国文化を援助したいとの意図を持つ資質です。いずれが先かは微妙ですが,我が内なる鎖国文化を維持し熟成したいとの志向と互いに響き合います。「わたしの精神医学」です。内なる鎖国文化が形を現し,幾つかの援助手技を手に入れた人は,クリニックを立ち上げます。鎖国環境の設定です。精神科臨床のロマンですから,当然の流れです。
グローバル化の奔流がロマンを壊し始めました。診断の領域での世界標準化すなわちDSMと援助手技の領域でのEBMです。診断については,表向きのDSMを尊重しながら援助作業においてはわたしの内なる精神医学を用いるという二重帳簿で凌ぐことができます。しかもそれは精神科を選んだ資質の中にある,裏世界嗜好を充たしさえします。深刻なのは援助手技についてです。中でも精神薬物療法については甚大です。手持ちの援助手技の中で薬物を主な手立てにしている治療者は,洋才に侵食されて魂の危機にあります。
ところで「エビデンス」なるものの成立過程を眺めてみると,それは正規分布の両端を切り捨てて作った「多数決」の成果です。多数決が参考資料以上の力を持つと薄っぺらな全体主義の本流を形成し少数者切り捨てに至ることはすべての世界で具現されています。この気分が医療を覆うようになると,「少数者への援助」という医療の原点が失われ,医学は疫学になります。珍しい疾患の見落としや頻度の稀な重大な副作用の見落としとして臨床現場で現れています。臨床は五感と第六感とを総動員して行うアートです。魂の営みです。その営みからの経験が各人の体験として刻み込まれて鎖国文化の中の「わたしのエビデンス」となっています。職人の「勘どころ」です。
薬物については事態はさらに深刻です。科学主義・客観化に根ざしているからです。これに侵食されて「薬物依存」「薬物乱用」風医療になってしまっている治療者はすべての医療分野に蔓延しています。向精神薬については,からだ(脳)への作用に限って客観化が行われ,しかも関連する変数を極力少なくするという科学実験の原則に沿ってエビデンスが得られています。その判定はこころの変化,しかも辛うじて有意差が出る程度の微かな多数決のデータです。現場では個体を共同研究者にして,その主観的判断(こころ→魂)を組み込みながら処方を決めて,テーラーメイドのエビデンスを積み上げていくのが医療です。
皆さん気づいておられますか? わたしたちは分担執筆で編纂された全書の類を購入しても,たまに参照するだけでおおかたは本棚の肥やしになっています。折に触れてページをめくるのは単著です。単著による精神医学教科書はしばしば座右の書になります。信者になっているわけではありません。その著者のなかで熟成した鎖国文化に触れることで自分の鎖国文化を省みる欲求ゆえです。このシリーズは分担執筆であるけど分担執筆ではありません。五人の「野武士」の方々が,精神医療の現状への危機感から立ち上げたシリーズです。野武士とは,鹿鳴館の賑わいを横目に見ながらも,自らの鎖国文化を育成し,それに支えられて「開く」が自在になり,被害感なしに,DSMやEBMの有用なところは取り入れて成長と成熟を歩み続けている人の謂です。「和魂洋才」です。シリーズは全10冊からなっており,最後の巻にシリーズ全体の執筆者一覧が載ります。野武士五人の方々の論述はもちろんですが,その他にも多くの方が複数の論述を寄稿しておられ,それらを縦断して読むことで多種多様な鎖国文化に触れることになります。単著の乱舞です。全10冊が医局の本棚にあると,ベテランの精神科医にとってはさまざまな鎖国文化を批判的に読むことができます。そのことはとりもなおさず自らの鎖国文化を省みる作業になります。歩きはじめの精神科医にとっては,自分の未来にさまざまの道が開けていることが見えて,こころと魂が定まります。なかにはどの道も自分の資質と馴染まないと分かって,脳科学の方向を選ぶかたもありましょう。それもまた素晴らしい選択です。
最後に,このシリーズには当事者の寄稿もあります。なかでも小石川真実という方の二本の論文「『患者を良くする』ことを念頭においた診断を」(診断の技と工夫 214頁)「本気でわかろうとしてくれる人が一人でもいると患者は立ち直れる」(精神療法の技と工夫 226頁)を是非お読みください。標準化とEBMの「洋才」に浮かれた被植民地化された精神科臨床でからだもこころもモミクチャにされながらも,辛うじて魂だけは守り抜いた人の「叫び」です。「わたしならどうするか?」と自問して下さい。魂までも毀損された「声なき声」が現場に溢れておりテーラーメイドの援助で叫びが蘇る経験は非医師の報告に散見します。
最近注目をあびている「オープンダイアローグ」という手法は見かけとは逆に,その個体独自の鎖国文化の回復が本質です。そう考えると,あの目を見張る効果が腑に落ちます。

外来精神科診療シリーズ メンタルクリニックが切拓く新しい臨床

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精神医学 59巻11号(2017年11月号)「書評」より

評者:神田橋條治(伊敷病院)

「よの中に交わらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる」(良寛)。いのちにとって「閉ざす」ことが必然です。そのなかで成長と熟成が進みます。「開く」は,成長と熟成とに寄与する次の策です。「閉ざす」自体が損なわれるといのちが自立性を失います。文化も同じです。開化期の先人たちは,「攘夷」という被害妄想のかわりに「和魂洋才」との心構えをもつことで,「鎖国」のなかで熟成してきた日本文化を守りました。当時の被植民地諸国の見聞からの知恵だったのでしょう。からだ→こころ→魂と並べたとき,その順に「閉ざす」が大切になります。「魂だけは売り渡さない」はさまざまな極限状況で現れる決意です。「身は売っても思いは主さまだけのもの」との遊女の覚悟もそのひとつです。魂を守る決意には切ない気分があります。グローバル化の流れやAIの発展がこころの領域にまで支配を広げてきたので,切なさは日常に瀰漫してきました。最近の奇妙な社会現象の多くを,切なさへの対処行動,せめて魂だけは守ろうとする工夫,として眺めると腑に落ちる気分が湧きます。
精神科臨床を選択した人々の多くは,からだ→こころ→魂の総合体を援助する志向を持っています。いのちの鎖国文化を援助したいとの意図を持つ資質です。いずれが先かは微妙ですが,我が内なる鎖国文化を維持し熟成したいとの志向と互いに響き合います。「わたしの精神医学」です。内なる鎖国文化が形を現し,幾つかの援助手技を手に入れた人は,クリニックを立ち上げます。鎖国環境の設定です。精神科臨床のロマンですから,当然の流れです。
グローバル化の奔流がロマンを壊し始めました。診断の領域での世界標準化すなわちDSMと援助手技の領域でのEBMです。診断については,表向きのDSMを尊重しながら援助作業においてはわたしの内なる精神医学を用いるという二重帳簿で凌ぐことができます。しかもそれは精神科を選んだ資質の中にある,裏世界嗜好を充たしさえします。深刻なのは援助手技についてです。中でも精神薬物療法については甚大です。手持ちの援助手技の中で薬物を主な手立てにしている治療者は,洋才に侵食されて魂の危機にあります。
ところで「エビデンス」なるものの成立過程を眺めてみると,それは正規分布の両端を切り捨てて作った「多数決」の成果です。多数決が参考資料以上の力を持つと薄っぺらな全体主義の本流を形成し少数者切り捨てに至ることはすべての世界で具現されています。この気分が医療を覆うようになると,「少数者への援助」という医療の原点が失われ,医学は疫学になります。珍しい疾患の見落としや頻度の稀な重大な副作用の見落としとして臨床現場で現れています。臨床は五感と第六感とを総動員して行うアートです。魂の営みです。その営みからの経験が各人の体験として刻み込まれて鎖国文化の中の「わたしのエビデンス」となっています。職人の「勘どころ」です。
薬物については事態はさらに深刻です。科学主義・客観化に根ざしているからです。これに侵食されて「薬物依存」「薬物乱用」風医療になってしまっている治療者はすべての医療分野に蔓延しています。向精神薬については,からだ(脳)への作用に限って客観化が行われ,しかも関連する変数を極力少なくするという科学実験の原則に沿ってエビデンスが得られています。その判定はこころの変化,しかも辛うじて有意差が出る程度の微かな多数決のデータです。現場では個体を共同研究者にして,その主観的判断(こころ→魂)を組み込みながら処方を決めて,テーラーメイドのエビデンスを積み上げていくのが医療です。
皆さん気づいておられますか? わたしたちは分担執筆で編纂された全書の類を購入しても,たまに参照するだけでおおかたは本棚の肥やしになっています。折に触れてページをめくるのは単著です。単著による精神医学教科書はしばしば座右の書になります。信者になっているわけではありません。その著者のなかで熟成した鎖国文化に触れることで自分の鎖国文化を省みる欲求ゆえです。このシリーズは分担執筆であるけど分担執筆ではありません。五人の「野武士」の方々が,精神医療の現状への危機感から立ち上げたシリーズです。野武士とは,鹿鳴館の賑わいを横目に見ながらも,自らの鎖国文化を育成し,それに支えられて「開く」が自在になり,被害感なしに,DSMやEBMの有用なところは取り入れて成長と成熟を歩み続けている人の謂です。「和魂洋才」です。シリーズは全10冊からなっており,最後の巻にシリーズ全体の執筆者一覧が載ります。野武士五人の方々の論述はもちろんですが,その他にも多くの方が複数の論述を寄稿しておられ,それらを縦断して読むことで多種多様な鎖国文化に触れることになります。単著の乱舞です。全10冊が医局の本棚にあると,ベテランの精神科医にとってはさまざまな鎖国文化を批判的に読むことができます。そのことはとりもなおさず自らの鎖国文化を省みる作業になります。歩きはじめの精神科医にとっては,自分の未来にさまざまの道が開けていることが見えて,こころと魂が定まります。なかにはどの道も自分の資質と馴染まないと分かって,脳科学の方向を選ぶかたもありましょう。それもまた素晴らしい選択です。
最後に,このシリーズには当事者の寄稿もあります。なかでも小石川真実という方の二本の論文「『患者を良くする』ことを念頭においた診断を」(診断の技と工夫 214頁)「本気でわかろうとしてくれる人が一人でもいると患者は立ち直れる」(精神療法の技と工夫 226頁)を是非お読みください。標準化とEBMの「洋才」に浮かれた被植民地化された精神科臨床でからだもこころもモミクチャにされながらも,辛うじて魂だけは守り抜いた人の「叫び」です。「わたしならどうするか?」と自問して下さい。魂までも毀損された「声なき声」が現場に溢れておりテーラーメイドの援助で叫びが蘇る経験は非医師の報告に散見します。
最近注目をあびている「オープンダイアローグ」という手法は見かけとは逆に,その個体独自の鎖国文化の回復が本質です。そう考えると,あの目を見張る効果が腑に落ちます。

外来精神科診療シリーズ メンタルクリニック運営の実際

外来精神科診療シリーズ メンタルクリニック運営の実際 published on
精神医学 59巻11号(2017年11月号)「書評」より

評者:神田橋條治(伊敷病院)

「よの中に交わらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる」(良寛)。いのちにとって「閉ざす」ことが必然です。そのなかで成長と熟成が進みます。「開く」は,成長と熟成とに寄与する次の策です。「閉ざす」自体が損なわれるといのちが自立性を失います。文化も同じです。開化期の先人たちは,「攘夷」という被害妄想のかわりに「和魂洋才」との心構えをもつことで,「鎖国」のなかで熟成してきた日本文化を守りました。当時の被植民地諸国の見聞からの知恵だったのでしょう。からだ→こころ→魂と並べたとき,その順に「閉ざす」が大切になります。「魂だけは売り渡さない」はさまざまな極限状況で現れる決意です。「身は売っても思いは主さまだけのもの」との遊女の覚悟もそのひとつです。魂を守る決意には切ない気分があります。グローバル化の流れやAIの発展がこころの領域にまで支配を広げてきたので,切なさは日常に瀰漫してきました。最近の奇妙な社会現象の多くを,切なさへの対処行動,せめて魂だけは守ろうとする工夫,として眺めると腑に落ちる気分が湧きます。
精神科臨床を選択した人々の多くは,からだ→こころ→魂の総合体を援助する志向を持っています。いのちの鎖国文化を援助したいとの意図を持つ資質です。いずれが先かは微妙ですが,我が内なる鎖国文化を維持し熟成したいとの志向と互いに響き合います。「わたしの精神医学」です。内なる鎖国文化が形を現し,幾つかの援助手技を手に入れた人は,クリニックを立ち上げます。鎖国環境の設定です。精神科臨床のロマンですから,当然の流れです。
グローバル化の奔流がロマンを壊し始めました。診断の領域での世界標準化すなわちDSMと援助手技の領域でのEBMです。診断については,表向きのDSMを尊重しながら援助作業においてはわたしの内なる精神医学を用いるという二重帳簿で凌ぐことができます。しかもそれは精神科を選んだ資質の中にある,裏世界嗜好を充たしさえします。深刻なのは援助手技についてです。中でも精神薬物療法については甚大です。手持ちの援助手技の中で薬物を主な手立てにしている治療者は,洋才に侵食されて魂の危機にあります。
ところで「エビデンス」なるものの成立過程を眺めてみると,それは正規分布の両端を切り捨てて作った「多数決」の成果です。多数決が参考資料以上の力を持つと薄っぺらな全体主義の本流を形成し少数者切り捨てに至ることはすべての世界で具現されています。この気分が医療を覆うようになると,「少数者への援助」という医療の原点が失われ,医学は疫学になります。珍しい疾患の見落としや頻度の稀な重大な副作用の見落としとして臨床現場で現れています。臨床は五感と第六感とを総動員して行うアートです。魂の営みです。その営みからの経験が各人の体験として刻み込まれて鎖国文化の中の「わたしのエビデンス」となっています。職人の「勘どころ」です。
薬物については事態はさらに深刻です。科学主義・客観化に根ざしているからです。これに侵食されて「薬物依存」「薬物乱用」風医療になってしまっている治療者はすべての医療分野に蔓延しています。向精神薬については,からだ(脳)への作用に限って客観化が行われ,しかも関連する変数を極力少なくするという科学実験の原則に沿ってエビデンスが得られています。その判定はこころの変化,しかも辛うじて有意差が出る程度の微かな多数決のデータです。現場では個体を共同研究者にして,その主観的判断(こころ→魂)を組み込みながら処方を決めて,テーラーメイドのエビデンスを積み上げていくのが医療です。
皆さん気づいておられますか? わたしたちは分担執筆で編纂された全書の類を購入しても,たまに参照するだけでおおかたは本棚の肥やしになっています。折に触れてページをめくるのは単著です。単著による精神医学教科書はしばしば座右の書になります。信者になっているわけではありません。その著者のなかで熟成した鎖国文化に触れることで自分の鎖国文化を省みる欲求ゆえです。このシリーズは分担執筆であるけど分担執筆ではありません。五人の「野武士」の方々が,精神医療の現状への危機感から立ち上げたシリーズです。野武士とは,鹿鳴館の賑わいを横目に見ながらも,自らの鎖国文化を育成し,それに支えられて「開く」が自在になり,被害感なしに,DSMやEBMの有用なところは取り入れて成長と成熟を歩み続けている人の謂です。「和魂洋才」です。シリーズは全10冊からなっており,最後の巻にシリーズ全体の執筆者一覧が載ります。野武士五人の方々の論述はもちろんですが,その他にも多くの方が複数の論述を寄稿しておられ,それらを縦断して読むことで多種多様な鎖国文化に触れることになります。単著の乱舞です。全10冊が医局の本棚にあると,ベテランの精神科医にとってはさまざまな鎖国文化を批判的に読むことができます。そのことはとりもなおさず自らの鎖国文化を省みる作業になります。歩きはじめの精神科医にとっては,自分の未来にさまざまの道が開けていることが見えて,こころと魂が定まります。なかにはどの道も自分の資質と馴染まないと分かって,脳科学の方向を選ぶかたもありましょう。それもまた素晴らしい選択です。
最後に,このシリーズには当事者の寄稿もあります。なかでも小石川真実という方の二本の論文「『患者を良くする』ことを念頭においた診断を」(診断の技と工夫 214頁)「本気でわかろうとしてくれる人が一人でもいると患者は立ち直れる」(精神療法の技と工夫 226頁)を是非お読みください。標準化とEBMの「洋才」に浮かれた被植民地化された精神科臨床でからだもこころもモミクチャにされながらも,辛うじて魂だけは守り抜いた人の「叫び」です。「わたしならどうするか?」と自問して下さい。魂までも毀損された「声なき声」が現場に溢れておりテーラーメイドの援助で叫びが蘇る経験は非医師の報告に散見します。
最近注目をあびている「オープンダイアローグ」という手法は見かけとは逆に,その個体独自の鎖国文化の回復が本質です。そう考えると,あの目を見張る効果が腑に落ちます。


クリニックを開きたいと願っている医師たち,あるいは精神科外来自体に関心を持つ医師たちにとっては必読の書

精神医学 Vol.58 No.5(2016年5月号) 書評より

書評者:松下正明(東京大学名誉教授)

評者はかつて,クレペリンにせよヤスパースにせよ従来の精神医学は精神病院に入院している患者を基礎に築かれてきたが,これからは外来診療を主とした精神医学が構築されるべきで,その内容は随分と変わってくるだろう,極端な言い方をすれば,疾患慨念自体,あるいは疾患名も一変するのではないかと,述べたことがある。将来は,精神科医療は外来診療中心の時代となるという脈絡の中での発言であった。
このたび,本書を含めて,「外来精神科診療シリーズ,全10冊」が刊行されることになり,いよいよ時期到来かと内心喜んだものであるが,予想通り,シリーズが刊行されてまだ半ばではあるが,すでにしてメンタルクリニックを中核とした精神科外来診療の時代の出現を予感させる出来栄えである。
編集主幹の原田誠一さんが「刊行にあたって」で,この企画は,「精神科クリニックでの実践を通じて集積されてきた膨大な〈臨床の知〉を集大成して,世に間うこと」,「現場に根差した〈臨床の知〉をひっくるめて示し,現在の正統的な精神医学~精神医療に対する自分たちなりの意見表明や提言をすること」にあると述べられていることも,精神科外来診療での〈臨床の知〉が,これからの精神医学の革新につながることを心ひそかに断言した自負に違いない。
本シリーズは,メンタルクリニックにおける精神科外来診療にみる新しい臨床の知から,診断の薬物療法,身体療法,精神療法,あるいは東日本大震災における精神科外来診療やギャンブル依存症などに至るまで,その関心の広さは大きいが,とりわけ今回書評の対象とする本書はメンタルクリニックの運営の実際についての知と技の詳細を示して尽きない。
本書は,計23の論考と28のコラムからなり,「クリニック開業の条件を考えてみよう」「クリニックの外的構造」「クリニック診療の内的構造」「クリニックと地域医療」「クリニックのリスク管理,安全の確保」「クリニックの経営」「クリニック開業医が担うもの―診療・経営以外のあれこれ」などといったタイトルを持つ10の章に分けられている。表題の目新しさに惹かれて本文を読み,またその内容のユニークさに一驚してしまう。
日本での精神科関連の全集では初めての試みと思われる本シリーズは,すでに開業しているメンタルクリニックにとってはおそらく座右の書であり,これからクリニックを開きたいと願っている医師たち,あるいは精神科外来自体に関心を持つ医師たちにとっては必読の書となるに違いない。

精神医学の知と技 沖縄の精神医療

精神医学の知と技 沖縄の精神医療 published on

沖縄の精神医療を論じながら,日本全体,そして世界の精神医療の動向もが明らかにされている

精神医学 Vol.58 No.3(2016年3月号) 書評より

書評者:西園昌久(心理社会的精神医学研究所)

沖縄は日本人の良心を問うている。それが本土復帰直前とその後の若干でも沖縄の精神医療を垣間見た評者の実感である。
著者は戦禍が残り,本土復帰後の社会変動の激しい中で誕生した琉球大学医学部の精神科初代教授として赴任し,沖縄の精神医療の改善向上に尽力し,退任後の今もそれを続けている人である。
内容は,第一章 沖縄県の概要から始まり,沖縄県の医療の歴史,沖縄の民族信仰とシャーマニズム,沖縄の精神医療の歴史と現状,沖縄における地域精神医療の歩み,沖縄における予防精神医療の歩みと続き,第七章 沖縄の精神医学・医療における国際交流で終わっている。さらに巻末に,沖縄県の精神医療に関する年表が記載され,読者の便宜が配慮されている。科学あるいは理念としての精神医学は万国共通であろうが,その実践としての精神医療はその国,あるいは地域の歴史,文化,習慣,法律,経済事情,住民の理解,さらには社会変動と深く関わるものである。本書では上記の章立ての内容にみられるようにそれらを的確に把握して記述されている。しかも,沖縄のみならず,必要に応じて日本全体,さらには外国の統計資料を駆使し理解を助けている。したがって,沖縄の精神医療を論じながら,日本全体,そして世界の精神医療の動向もが明らかにされている。
沖縄戦の犠牲者は,日米の軍関係者は別として,沖縄住民,十数万人といわれるから全住民の10%強に相当する。当時,外傷後ストレス障害の概念はなかったが,「この世が信じられない」という外傷体験を多くの住民が体験したことは想像できるところである。本書の中で,本土復帰前,「精神衛生実態調査」が行われ,その結果,精神障害有病率は本土の約2倍に相当するとされたことが明らかにされた。それは,沖縄戦によって住民が受けた心的トラウマと無関係でないであろう。精神医療の決定的不足を補う「派遣医制度」,復帰後の精神科病床ならびに精神科クリニックの急増が数字を挙げて明らかにされている。そのような精神医療の充実の進んだ時点で著者はその動向にある種の危惧を体験された模様である。
その後,著者は琉球大学精神科の診療ならびに研究活動として,予防精神医療を始められたことが明らかにされている。同教室の研究成果のみならず,国際交流,国内における予防精神医学の主導,その後の発展が記載されている。それは,著者が精神科医になって間もなく,派遣された精神科病院での原体験と深く関わっていることが読みとれる。本書は読みながら,精神科医としての自分の立ち位置を内省させられる内容を含んでいる。そして,沖縄戦で戦死された著者のご尊父への鎮魂の報告書でもあろうと思われた。

専門医のための精神科臨床リュミエール 30 精神医学の思想

専門医のための精神科臨床リュミエール 30 精神医学の思想 published on

精神医学とその関連領域の最近の進歩を安心して学ぶ格好の教材

精神医学 Vol.54 No.9(2012年9月号) 書評より

評者:西園昌久(心理社会的精神医学研究所)

本書の「序」によると,日々新たに加わる精神医学上の課題の解決の方向を照らしだす光(フランス語:リュミエール)の役割を果たすことを目的に刊行されてきた本シリーズも一旦,本書をもって休止されるという。従って本書はいわば,これまでの本シリーズの総括書である。題して,『精神医学の思想』。評者のような年輩の者ならずとも,日々のおのれの臨床の所為にいささかな思いをしている精神科医は手にしたいネーミングの本である。というのも精神医学は人間存在,そして社会のあいまいさ,不確かさに対応せねばならない。つまり,精神科医は本来,「考える人」であることを求められるのである。それに応ずるかのように,本書の「序」で2人の編者は連名で,“そもそも精神の自由とはどういう状態なのか,そして究極的には,人であるとはどういうことなのかなどの疑問を抱きながら,精神医学は精神を病む人びとと向きあうことになる”と記している。その謙虚さこそ精神医学を成り立たせるものであろうし,本書編集の基本的態度であろうと読みとれる。
本書は6章21項目からなる構成である。それを紹介することは指定された字数を超えるためできないが,よくもまあこれだけのテーマを用意され,しかもそれにふさわしい執筆者を集められたものと思う。大学を辞めて10数年経つ評者には執筆者の多くの方は未知の人であるが,それぞれの内容はそれぞれの専門の立場から本書の『精神医学の思想』の趣旨にそった論述をされ,徒らに自己の立場に拘わるという論文は見あたらない。その意味で,精神医学とその関連領域の最近の進歩を安心して学ぶ格好の教材である。わが国の精神医学研究陣の健在さとその可能性をあらためて実感することができた。
第1章には「精神医学とは何か」と題して本書の基調をなす内容が明らかにされている。その中で,精神医学は,「精神疾患に病む人の人間理解」として,脳疾患の次元からみた理解,気質・体質,パーソナリティの次元から見た理解,現象学的次元から見た理解,人間学的次元からみた理解,社会・環境の次元からみた理解よりなる「5次元的精神医学」が解説されている。DSM-Ⅲがあらわれる前までに精神科医に育った人たちには,その一部をあげれば懐かしいKraepelin, Jaspers, Schneider, Kretschmer, Rumke(uはuウムラウト), Minkowski, von Gebsattel, Binswangerなどの精神科医の名前が陸続と登場しその学説が病む人の人間理解という視点から解説されている。「人間学的次元からみた理解」の中で,はじめFreudの影響を受け,後にそこから離れて独自の現存在分析を創始したBinswangerの解説に著者の思いがこもっているように見受けられる。そのBinswangerは,彼自身の著書の中で,“聴くこと,それは精神医学における鍵技能である。Freudの影響が及ぶ前は,精神科問診は衣服やシャツの上から打聴診するに等しく,患者の本質的なことは取り残され確かめられないままであった”と記していることを紹介しておきたい。DSM-Ⅲ以降の精神科診断に対するある種の閉塞感もBinswangerの戒めに従えば時代的逆行と云えよう。『精神医学の思想』を語る時,更に論じていただきたいことは,人類社会の発展の折々の時代精神の変化が疾病構造とそれに対応する精神医学の内容に与えている影響についてである。そして,社会精神医学の理念と関連した精神科チーム医療も大切なテーマと思う。ともあれ,精神科医の必読の本である。日本精神神経学会学術総会などで論じあうのに最適のテキストである。


いくつもの教訓を得られること間違いない

臨床精神医学 Vol.41 No.8(2012年8月号) 書評より

評者:原田憲一(武田病院)

本書は松下正明総編集によって4年前に出発した〈リュミエール〉シリーズ30巻の最終を飾る論文集である。
本論文集の責任編集者神庭重信,松下正明両氏による序文にこの本の意図がわかりやすく述べられている。すなわち「精神医学とはどういう医学なのか」,「精神を病むとはどういうことか」,「精神医学の乱用と倫理性の問題」,「脳-心問題」そして「精神医学と人文科学」といった問題意識をもってこの本は編まれた。
いくつか私に強い印象を与えた言説を記す。
20世紀の精神医学を形作った現象学的,人間学的,社会学的思想は21世紀にも必要である(松下正明)。ヒトの進化にかかわる遺伝子は,別の神経活動の関連遺伝子に比べて,統合失調症とより強いつながりを持つ。今日正常性の基準の底上げが顕著で,それは過剰規範の性格を帯びる(加藤 敏)。文化結合症候群のことを考えれば精神医学概念が普遍妥当性をもっていないことがわかる(下地明友)。精神医学は反精神医学とともにあって初めて正確に機能するものである(鈴木國文)。精神医学というのは,原因不明なものや説明不可能なものこそを扱う運命にあるように見える。近年は人が経験する苦悩の多くを精神的な問題をして医療化する傾向にあり,操作的診断はその具体化を図っている(岡田幸之)。神経倫理学とは,人間の脳の治療やエンパワーメントの正邪を論じる哲学であり,すでに200年前から論じられてきた(香川知晶)。「病因指向的」な治療思想でなく,「回復指向的」な治療思想が大切だ(八木剛平)。精神分析は患者の悩む能力,悩む容量の拡大を目指しているが,決して悩みそのものを消そうとはしない(藤山直樹)。強制治療に関わるリーガルモデルを進めると脱施設化は進展したが,刑務所に収容される精神障害者が増えた。そのため米国ではパターナリズムの有用性が再評価されている(五十嵐禎人)。病名の告知や医療の必要性についての専門家の無思慮な説明が,「内なる偏見(self stigma)」(患者自身が自分の存在に対して偏見をもつこと)を高めてしまっている(藤井千代)。
また,ロシア精神医学の,脳と高次精神機能に関する力動的理論のわかりやすい解説(鹿島晴雄)や,聴き取りに基づいた医学(narrative-based medicine)についての良い説明(野田文隆),さらに,英国の経験論哲学がその国の精神医療において「疾患単位」より「援助実践」を重視することの思想的基盤になっていることの明示(花村誠一)など,示唆の富む論文を見いだすことができる。精神医学と宗教文化の相補性のこと(島薗 進),今日の精神医学の問題点を歴史の上に跡づける論文(大塚耕太郎)や,米国精神医学会の歴史を辿った明晰な記述(黒木俊秀)など教えられるところが多い。村井俊哉,中根秀之,古茶大樹,樋口輝彦,三好功峰氏らの論文にも,それぞれに味わいがある。
読者によって,関心の強い論文を選んで熟読するのもよし,あるいは全部を通読して精神医学の多面性に一層の目を開かされるのもよい。いくつもの教訓を得られることは間違いない。
この本の標題「精神医学の思想」とは,精神医学を成り立たせている,あるいは隣接している諸科学,特にピアジェのいう「人間科学」の考え方(思想)を展望しようという意味だろうが(そしてそれは見事に成功しているが),それ以上に私には本書の標題が,奇しくも「ひとつの思想としての精神医学」との含意をも匂い立たせているように感じた。
精神科医のみでなく精神医学に関心のあるすべての方々に本書を推薦する。

専門医のための精神科臨床リュミエール 27 精神科領域からみた心身症

専門医のための精神科臨床リュミエール 27 精神科領域からみた心身症 published on

今まさに精神医療が直面している問題の解決への糸口を提示している

精神医学 Vol.54 No.8(2012年8月号) 書評より

評者:尾崎紀夫(名古屋大学大学院医学系研究科精神医学・親と子どもの診療学分野)

心身医学に興味を持ったのは高校生の頃,池見酉次郎先生の「心療内科」(中公新書)を拝読した時に遡る。小説好きから精神分析に興味を持ち始めていた当時,「心療内科」に書かれていた内容,特に症例を中心とした臨床的な話は,大変,魅力的なものであった。両親医師(精神科医ではない)の元で育ったものの,「医学より文学」などと考えていた私に,「臨床医学は興味深い」と思わせる効果を持っていた。その結果,「精神科医か,はたまた心療内科医を目指すべきか」という迷いは生じたが,いずれにせよ,医学部に進むことは間違いのない方向と思えた。
その後,卒後研修医として各科をローテートする2年間を市中の総合病院で過ごした。その間,様々な身体疾患の経過に心理社会的な要素が関与することを目の当たりにしたが,中でも強く関心を持ったのは,腎臓移植であった。1) 免疫抑制のため使われる副腎皮質ステロイドや腎機能障害が脳に与える影響という生物学的次元の問題,2) 本邦で大半を占める生体腎移植に際し,「家族内の誰が腎臓を提供するのか」という問題を巡って生じる家族内葛藤の問題,3) 他者の腎臓が自己の腎臓として身体的にも精神的にも統合される過程が引き起こす自己と他者の問題,などなど。まさに,生物・心理・社会的な問題をはらんでおり,その後の診療,教育,研究に大きなインパクトを与える体験であった。
さて,現在,「5疾病」に精神疾患が組み入れられ,地域医療計画の策定が進みつつあるが,「身体疾患の精神医学的問題」と「精神疾患の身体的問題」を解決することが求められている。その際,必要になるのは,心身医学の目指した全人的医療,「疾患の持つ生物学的な側面だけに着目するのではなく,心理・社会面など多面的な視点で患者をとらえ,患者中心の医療を展開する」という姿勢であろう。一方,前述の問題解決へのニーズは高まっているにもかかわらず,主として取り組むべき総合病院における精神医療の担い手は不足しているのが現状である。
本書は,心身医学と精神医学の関係性について確認した上で,精神医学の立場から心身医学を捉え直し,「心身医学的なアプローチが重要な意義をもつやや広い領域」をカバーしており,今まさに精神医療が直面している問題の解決への糸口を提示している。本書を読んだ医師・医学生が,一人でも多く,総合病院における精神医療に興味を持ち,参画してくれることを願う次第である。
一点,統合失調症や双極性障害は身体疾患を併存することが多く,その治療にあたる必要も多いが,この点を踏まえた章があっても良かったかも知れない。今後の改訂に際しての願いである。