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発達心理学の新しいパラダイム

発達心理学の新しいパラダイム published on

拡張された関係性への確たる視線を感受 「人間とは何か」ということを問うこと

図書新聞3356号(2018/6/23)

評者:黒川 類

発達心理学というカテゴリーは、わたし(たち)にとって、あまり馴染みがないかもしれない。文字通り、人間の発達過程を心理学的手法で分析していくことなのだが、本書の巻頭に配置されたヴァスデヴィ・レディの基調講演「乳児期におけるかかわることと心への気づき」や松沢哲郎のミニ・レクチャー「想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心」という二つの論稿の表題から類推できるように、乳児期の成長過程やチンパンジーの生態を通して、人間とは何かを問うていくものとしてあるといっていいかもしれない。乳児との「かかわり」と、その応答・反応の観察を通して、ヴァスデヴィ・レディは次のように述べていく。
「私が提唱したいのは、社会的認識がどのように発達するのか理解するためには『二人称的かかわり』の理解が真に必要で、またそこからスタートしなければならないということです。(略)『二人称的かかわり』とは、単に他者に注目を向けたり、他者に向かって指示をしたりすることではなく、『かかわる』ことなのです。いわゆる『むすびつき(connection)』であり、『相互的関与』なのです。」
ここで述べていることは、発達心理学というカテゴリーを超えて、拡張された関係性への確たる視線をわたしは感受することになる。後段のディスカッションのなかで、レディは、「最近、乳児だけでなく大人同士のかかわり――認知症の人、普通の定型的な大人――についても多く考察してきている」と語っているからだ。もちろん、心理学者は臨床医ではないが、ここで示唆していることは、実に刺激的なことだと思う。文学的表現(小説作品)では、一人称文体か、三人称文体が通例使われ、二人称文体は読み手に混乱を与えかねないので、よほど熟達していなければ、避けるべきなのだが、認知症の人や、普通の大人に向きあうには、「わたし」と「あなた」という関係性を醸成していかない限り、距離が近接していくことはないのは明白だ。このことは、まさしく、心理学や医療だけではなく、わたし(たち)が日々、関わっていく人間関係にもいえることだといいたい。
松沢のレクチャーは、「人間の体も、そして心のきずなもまた、進化の産物である」という視点に立って人間に一番近い存在だというチンパンジーの生態へと接近していく。チンパンジーやオランウータンの産まれたばかりの子供は、「1日24時間、生まれて3ヶ月の間、一時もお母さんから離れること」はないという。それは、「人間は地上性」での生活だが、「チンパンジーやオランウータンは樹上性」だからだ。そこで導きだされることは、チンパンジーの産まれたばかりの子供は「仰向け」では安定しないが、人間の乳児は、「仰向け」でも安定していられるということだ。この当たり前のことが、「人間とは何か」ということを解く方途となっていく。「仰向け」であることによって「豊かなコミュニケーション」がとれるようになり、「仰向けの姿勢が人間を進化させた」と松沢は指摘していく。
本書は、公益財団法人中山人間科学振興財団の創立二十五周年を記念する行事として、一六年一〇月に「人間科学における〝二人称的アプローチ〟」と題して行われたシンポジウムを収録したものだ。他に、「無意識的な身体の同調」というものが、「言語を含むシンボリックな社会的コミュニケーション」の前提条件ではないか提起していく下條信輔のレクチャー「こころは孤立しているか?」を収め、レディ、松沢、下條の三人をパネリストとして、佐伯胖が司会を担当、當眞千賀子が通訳・解説をするというディスカッションを最後に配置して、本書は構成されている。
「人間科学」という、一見、堅苦しい概念だが、直截に「人間とは何か」ということを問うことであり、それは、わたしなりに読解していくならば、そもそも人間は政治・経済・社会という広範な領域において、自分たちがどういう存在であるかを捉えきれていないということであり、そのことが、現在という場所を困難な様態にしている遠因であるといっていいはずだ。そのことをわたし(たち)は真摯に自覚すべき段階にあるのだといいたいと思う。


こころの科学 No.198(2018年3月号)「ほんとの対話」より

評者:神田橋條治(伊敷病院)

定価一三八〇円の小さな本ですが、内容の豊かさは抜群です。レディ教授による基調講演に続いて松沢・下條両教授によるミニ・レクチャーが収録されています。そこから第一級の識者たちによる質疑・討論が行われます。的確な相互理解に根差したそれら対話の素晴らしさは読んでいて臨場感にあふれ、脳を忙しくさせられます。中山人間科学振興財団の創立二五周年記念行事にふさわしい濃密さです。昨今の学会シンポジウムのスカスカさを連想して悲しくなります。
濃縮された内容をさらに短く紹介するのは難事ですが、評者が受けた影響を添えて紹介すると、いくらか本質をお伝えできましょう。まずレディ先生は母親としての自身の体験から、乳児は生後九ヵ月にはたしかなコミュニケーションをしていると知り、さらにこまかな観察と論考の末、新生児の段階から「こころ」の発達はあり、かかわりの場での観察すなわち「二人称的アプローチ」でのみ把握できると論じます。松沢先生は京都大学でのチンパンジー研究と周辺の膨大なデータから、出生直後から「こころ」は関係のなかで発達しており、「こころ」の成長はヒト占有でないことを示されます。下條先生は「こころは孤立しているか?」と題されて、これまでの実験心理学や神経学は相互作用の場を排除することでワザワザ重要なデータを見過ごしていると、さまざまな実験データをもとに示してくださいます。お二人の補強によってレディさんの論旨はいっそうわかりやすいものになります。
引き続いて、フロアとの質疑応答が収録されています。発言者はみな一級の識者ですから、質疑は講演内容を拡充するものになっています。雰囲気から察するにみなさんが講演に刺激されて脳が忙しくなり、「発言せずにおれない」気分になられているようです。その内容がさらに豊潤さを加えます。評者にはここから二つの学びがありました。
第一に、上質の知識人には他者のメッセージを理解して受け取ることができ、それに触発されエキサイトする、認識群が身に備わっていること。第二に、みずからの興奮を知的な言語を用いて、しかも相手に理解しやすい表現で送り出す修練ができていること。この二点です。わが身を省みて悲しくなります。この反省は、多くの読者にとって警策の作用がありましょう。一見わかりやすく読みやすいこの本の余徳です。
それぞれのレクチャーの後ろに、おそらく厳選された少しの文献のリストがあります。さらに討論記録の後ろにも文献のリストがあります。外国語を読み慣れた方には貴重な資料でしょうが老人のボクにはもう無理なので、フロアからの発言者のお一人、岩田誠教授の『臨床医が語る認知症と生きるということ』(日本評論社)を購入して、「スゴイ、スゴイ」と宣伝しまくっています。
ボクは対話精神療法を持ち芸としてきました。永年の工夫の結果、言語対話の補助として非言語的かかわりが大切だと痛感し、技法として取り入れることが増えてきました。拠りどころとする心理学理論も、精神分析理論から間主観性を重視するほうに傾いてきました。一人称の心理学から「二人称的アプローチ」へです。この本との出会いが「百尺竿頭の一歩」となりました。日常診療での非言語的かかわりと場の設定が精神療法の核心であり、理論や技法や対話はきわめて優れた補助手段であり、薬物と同じ位置に置くのが有用だとの心構えになりました。ふと、ボクの臨床はすでにそうなっていたことに気がつきました。現実と理解とがしっくりすると肩の荷がおり楽になると、知ってはいたけど、わが身にとって新鮮な体験です。

ホモ ピクトル ムジカーリス

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こころの科学 No.200(2018年7月号)「ほんとの対話」より

評者:神田橋條治(伊敷病院)

冴えわたる知の交響曲です。知性の躍動が産んだ作品です。どうぞ生で触れてみてください、と紹介するだけで足ります。が野暮を承知で、以下に解説をお話しします。

著者の本業は臨床神経学、この業界で長老でありかつ現役の医師です。医療現場では、生体の機能を理解・把握しその改善を企図します。そう意識しているとき、医療は知の活動です。この活動が最も積極的に、休みなく行われるのは臨床神経学です。機能の現状を把握すベく患者に刺激を加えて反応を見たり、作業を負荷してその成否を観察します。生体への問いかけです。活動を主導するのは医師の側の知識と疑問です。個々の生体の機能と役割とが把握され、知的作業の充足感が生まれます。習慣は自在となり、著者の血肉と化しています。その著者にとって、知の機能と果たす役割は自明です。知の機能は華々しく展開され、いまや地球上のすべてに害を及ぼすに至っています。ホモ・サピエンス(知恵あるヒト)などとはおこがましい。「アートするヒト」のほうがふさわしいのではと著者は言いたくなります。しかもアートは著者にとって、どうしても知の作業の充足感・納得感の得られない機能と役割の分野です。

「ヒトは何故アートというような、一見生存には不要な営みを、かくも執拗に追い求めようとするのか」との問いです。「自分の生存の可能性が失われていくことが確実な極限的な環境下でも、ヒトは、語り、詠い、唄い、描き、奏で、踊り、演じようとする。むしろ、そういう時にこそ、ヒトはアートといえるような行為を積極的に行おうとすることが少なくない」。

この疑問はヒトを理解し納得し援助する営みを生きてきた著者の知を駆り立てます。そのとき採用されるのは自家薬篭中の臨床神経学の方法論です。すなわち、系統発生と個体発生とを対比しながらの思索です。加えて生の資料があります。お孫さん二人の成長観察とご自身の乳幼児期の発達についてのご両親の観察日記です。

まず生物進化における二足歩行と脳の巨大化について、次いでコトバという機能の進化について広範な文献引用で考察を進めます。ネアンデルタールとヒトとの機能の異同が考察されます。そしていよいよホモ・ピクトル(描くヒト)、次いでホモ・ムジカリス(音楽するヒト)へと推論が展開します。アートという機能のヒトにおいて果たす役割が解明されてゆきます。読む者の陶酔を生む、知の饗宴です。しかし最後の第六章に至って、著者の知の真骨頂が現れます。これだけの華麗な活動で得られた結論にさらなる疑問が提示されるのです。商品化されたアートや複製としてのアート作品のテーマです。

ここで、著者に触発され評者の脳が生み出した連想をお話しします。機能には役割があり、役割が進化圧となることは著者の論述の通りです。ここで、手段と目的という陳旧な概念を採用してみますと、目的達成という報酬によって手段は進化しますが、そのうちに手段を内在する生体内に報酬系が発生し、それが手段の進化を助けます。あるとき突然、内部報酬系を相手に手段の進化が起こるようになります。一種の嗜癖です。アートの転換です。しかもこの内部の進化は他者の内部報酬系と共鳴する性質をもっています。共鳴の科学的解明はまだ途上ですが、共鳴現象の強弱でアートの価値が量られます。知の活動にも同じ事態が生じます。著者の今回のお仕事が知の交響曲と呼ばれるべきアートと評者が感じる理由です。哲学もアートです。

それはともかく、まず「はじめに」と「おわりに」を読まれてから本文に触れるようになさると、めまいの感覚が少なくてすみましょう。そうお勧めします。


著者の発想を単なる仮想と片付けず、ここから新しい発見をする必要がある
─「芸術が出来ること」を重要視する発想

図書新聞 3323号(2017年10月21日発行)「書評」より

書評者:宮田徹也(京都嵯峨美術大学)

今日、アートに関する研究書に変化が訪れている。多様に変貌する作品、アートを取り巻く環境の変化、アートの価値観の変容など様々な要因が考えられる。最も重要なのは従来の哲学から派生した美学、歴史学を基礎とした美術史という近代に生まれた学問そのものの見直しが問われている点ではないか。
アダム・スミス(1723~1790)『富国論』(1789年)によると当時の学問とは人文学、法学、医学、神学であり、人文学は古代ローマの自由七学芸のことで文法・。論理・修辞・算術・幾何・音楽・天文であり、美術はない(岩波文庫〔四〕19頁)。つまり美術について考える学問とは、近代以前は存在しなかったことになる。
例えば皆本二三江は幼児画を研究することによって、男女が描く色や対象の相違を明らかにした。皆本の研究はジェンダーがバックボーンではない見解なので、学問の領域では無視されることが多々あった。しかし美学と美術史が対象にしない、作者の人間としての、人類の成り立ちに対する見解は今後、不可欠となろう。
岩田誠の『ホモ ピクトル ムジカーリス』もまた、新しい視点からの考察である。岩田は医師である。岩田は早い段階からアートが人類にとって不可欠であることを考えていたが、なかなか自らの専門だけでは解決に至らなかった。「孫たちの造形行動の発達過程を、直接観察する機会が得られた」(v頁)ことが、長年の疑問を解くきっかけとなった。
本書の第一章「直立二足歩行革命」では生物科学から人間だけが行なう歩行について、第二章「ホモ ロクエンス」では神経心理学から人間だけが携える言葉について考察する。なぜ脳が発達したのか、喉を震わすことが出来たのか等、様々な原人の動向を科学的に述べている。専門でない人でも充分に読み解けて説得力のある内容だ。
第三章「ホモ ピクトルと美の誕生」では洞窟壁画を、第四章「ホモ ピクトル ムジカーリス」では旧石器時代の楽器を考察している。「現実世界の事物の表象としての「絵」を描くためには、語という分節構造を持った言語を操る能力がなければならない。この能力を持つに至ったのは、われわれホモ サピエンスのみである」(119頁)。
本書の題目も、この二つの章で明らかになる。「ホモ サピエンスとは「賢い(知恵のある)ヒト」を意味する」が「地球という生息環境を破壊し、他の生物を駆逐しつくしながら、自らは数のみ増加してきた存在である」ので、岩田は現存の我々ヒトを「描くヒト=ホモ ピクトル」と呼ぶことを提唱した(114~115頁)。
また、岩田はネアンデルタール人が絵は描けないが音楽はできたというこれまでの学説に対して、ホモ ピクトルは音楽を演奏できるので「ホモ ムジカーリス=音楽するヒト」とし、絵を描くこともできるので「ホモ ピクトル ムジカーリス=音楽し描くヒト」と呼んではどうかと考える(142~143頁)。岩田は「芸術が出来ること」を重要視する。
第五章「アートの役割」でギリシャ時代から近代におけるまでの東西のアートの歴史を「賢いヒト」ではなく「ホモ ピクトル ムジカーリス」の見解から振り返り、検討する。すると大切なのは、古代、神々に「祈り」(169頁)を捧げるパフォーマンス(173頁)が近世において「民衆が求める娯楽」(189頁)になることだ。
第六章「アートの現在」では、パフォーマンス・アートが日本では安土桃山時代に発達した能楽によって「職業的アーティスト」となり(207頁)、「依頼がないのにも関わらず製作された作品に金銭的な価値が付与されるようになった時、それは商品化されたアート作品」(212頁)となったのが、世界に先駆けて江戸期であったと考察する。
岩田の発想を単なる仮想と片付けず、ここから新しい発見をする必要がある。それは美術関係者だけではなく子育てをして親を介護する、今日を生きる我々全てに必要である勇気と言えるだろう。


「我」と「汝」 関係の表現が芸術

毎日新聞 2013年7月16日朝刊 今週の本棚より

書評者:中村桂子

神経内科医である著者は「アートとはなにか」という問いへの答えを、脳機能を基盤とする神経心理学に求めていたが、退職して孫の言葉と描画の発達を観察し、進化史で考えるようになった。専門と日常を一体化して謎を解く科学者のありようとして興味深い。
観察は二足歩行から始まる。這(は)い這い(ヒト特有の移動)、つかまり立ち、一人立ち、歩行の各過程で足底を楊子で擦った時の屈曲反応の変化から、歩行に関わる神経機構の強固さを確かめる。赤ちゃんで誰もが試せるこの反応は、類人猿にもある。森林では二足歩行は不要ということだろう。
二足歩行と連動した言葉の獲得の時期から、人間特有の活動が始まる。コミュニケーションの手段は、鳥の鳴き声など他の生物にもあるが、それらは眼前のでき事への行動を惹起(じゃっき)する操作的コミュニケーションである。言語は指示的コミュニケーションであり、そこから教育、装身具の作成(自己を客観的に示す)、死後の世界という人間独自の世界が生まれたと著者は言う。ネアンデルタール人には、われわれのような分節性言語はなく、指示的コミュニケーションはできなかったようである。その差がイヌの家畜化の可否につながり、イヌを狩りに利用できたホモサピエンスが生存競争に勝ったのではないかという指摘は興味深い。
著者は孫たち、また自身の子どもの頃の両親による記録から言語獲得過程を個人の発達の中で追う。ブーブー(自動車)という「モノ」に始まり、「モノ」と「モノ」の関係、つまりハイチャ(さよなら)などの「コト」を知る過程が進化の中での言語能力の獲得と重なっての観察は楽しい。
指示的コミュニケーション能力の獲得は、アート、つまり表現へとつながっていく。近年ゾウのお絵描きが話題だが、訓練や報酬なしで描画を楽しむのは霊長類からである。ただそれはなぐりがきを越えない。一方人間は、なぐりがきから始まって閉じた円などを描くようになり、二歳半頃には自分の顔だとか風船だなどと説明するようになる。また三歳半頃には、複数の対象を描き、「…しているところ」という「コト」を表現するようになる。六歳くらいになると自己中心座標だけでなく、公園全体を描くなど環境中心座標での空間表現も生まれ、これは言語能力獲得と並行している。幼時に言語を教えられず絵を描けなかった少女が、言語能力と共に描く能力も得たという。
古代の洞窟画の大半がリアルな大型動物であるのは、狩りの成功への祈りというよりその場の占有権を主張する勇気の証であり、群をつくって生きる有効手段だったと著者は考える。一方、ヴィーナス像など小さなアートには「美」の追求が見られ、美の概念をもつホモ・ピクトルを実感させる。
次いでホモ・ムジカーリスである。近年、ネアンデルタール人も歌を持っていたと考えられ、絵画洞窟の絵の描かれている場所は音響効果がよいという調査もある。ここで歌や演奏がなされていた可能性が高い。協同での狩りにはリズム合わせが大事ということも明らかになっており、音楽や絵画は「社会的行動」と共にあると言える。

アートのありようは時代と共に変化してきたが、今も生活の一部としてある。人間は自身と世界との関係を「我」と「それ」の関係として知る科学をもつ。そして「我」と「汝(なんじ)」との関係の表現がアートであり、この二つは共に人間の本質と言ってよい。これが著者の答えである。


歌うという行為は,正に祈りそのものであったと考えられる

フレグランスジャーナル Vol.45 No.7(2017年7月号)

ホモ サピエンスは「知恵あるヒト」,ホモ ルーデンスは「遊ぶヒト」,舌をかみそうなこの語は…。生物界におけるヒトの特異性を表わす著者の造語だが,それは知恵でもなく遊びでもなく,語る,描く,歌う,奏でる,踊る,演じるといった野生動物には見られない営み,「アート」である。確かに鳥だって歌うし,ゴリラも胸を叩いて奏でると言えなくもないが,それらは敵や餌の在りかを知らせたり,縄張りを主張したりする,いわば生存に必要なコミュニケーション手段。
ヒトのアートはそれとは違う。暇つぶしや娯楽の一種というほど軽くもなく,むしろ極限状況下でアートに積極的になったりする。「ヒトは何故アートというような,一見生存には不要な営みを,かくも執拗に追い求めようとするのか」,神経内科医である著者は長く抱いてきたその疑問の答えを,脳内メカニズムから導き出そうとするのは見当はずれだと気付く。同居する孫が這い這いをし,つかまり立ちをし背伸びをし,日々成長する姿を見て…。
アートを生み出す高度な脳機能,その原動力は「直立二足歩行の獲得」にあり。本書は,私たちの祖先が二足歩行を始めたとき,脳にどのような変化が生じたのか,という考察から始まる。ホモ エレクトゥス(直立するヒト)からホモ ロクエンス(しゃべるヒト)へ,赤ちゃんは1歳前後でしゃべり始めるが,ヒトの言語能力の完成には,喉頭の構造変化,神経機構の発現,語彙の蓄積,記憶の形成など,長い時間を要したと考えられる。
孫はやがてお絵描きを始める。1歳9か月では「なぐりがき」だったが,2歳5か月では自分で何を描いているのかが分かり,「絵」になった。一方,高等霊長類であるチンパンジーではそれがなぐりがき止まり,先に進まない。チンパンジーは絵を描けないのである。
ホモ ピクトルとは「描くヒト」。ならば,ネアンデルタール人が描いたとされる洞窟画をどう捉えるべきか? 絵画洞窟に足を踏み入れ,私たちの祖先はいよいよ歌い,踊り,奏で始める,ホモ ムジカーリス(音楽するヒト)となる。「発達してきたアートの中で,最も中心的な役割を担っていたのは,恐らく歌ではないか」と著者は言う。
現代は歌や音楽があふれている。アート作品の複製化技術の進歩により,いつでもどこでも音楽を再生できる。にもかかわらず,人々はわざわざコンサートへと足を運ぶ。そこでは一体何が起きているのか,聴衆は何が起きるのを期待しているのか? アートはヒトの本能である。「霊長類の進化史から人類発達史へという時間軸」を飛び出し,ホモ ピクトル ムジカーリスなるアーティスト(表現者)の誕生と,そして今。

西園精神療法ゼミナール 1 精神療法入門

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芳醇の極み 静かな境地に至った長老が語る入門書

こころの科学 No.154/11-2011 ほんとの対話より

評者:神田橋條治(伊敷病院)

入門書は長老によって書かれるべきだ」が読後の感想である。多くの入門書は、ベテランあるいはベテランと自覚する人々、弟子を育てている最中の人によって書かれる。資料とされるのは、みずからの成長の経緯の記憶と、育成中の弟子の観察である。それに比して、長老の資料には、ベテランの域に成長した弟子たちの成り行きと現状観察が大きく加わる。前者は親が書いた育児書であり、長老によるそれは祖父が語る育児の知恵である。

半世紀ほど前、僕らが師事していらい今日まで、先生は一貫して治療者であり教育者である。八〇歳を超えたいまも、クリニックで主治医として診断をなさっており、往診をされることもあると聞く。加えて、併設する「心理社会的精神医学研究所」で毎水曜日夜「精神療法講座」を開かれ、すでに一一年目を迎えている。講師陣は、広義の精神療法や関連する諸分野の錚々たるメンバーが連なっている。そのなかの西園先生ご自身の担当分が、四冊組で出版されることとなり、幕開けが本書である。

「皆さんはDSMやICDなどの操作的診断をすることになると思いますが、臨床的診断をするうえで症状の把握のために、それぞれいろいろな『型』をおもちだと思います。ここでは私の『型』をお話しします。これは、私が長年の患者さんとの経験によりつくったもので『こうしなくてはいけない』というものではありませんが参考にして下さい」。この文章に続けて、①睡眠障害、②食欲、③不安の有無、④抑うつ感情と自殺念慮の有無、⑤対人関係上の苦痛、⑥精神病的考え、⑦記憶力・計算力障害の有無の項目が語られ、⑦については「身体の質問から始めて、『気持ち』『対人関係』という患者さんの主観の世界にだんだん入っていって、コミュニケーションがついた後に初めて、こうした欠陥に関することを訊ねるという配慮が必要です」と、関係づくりをなにより大切にされる先生の姿勢が説かれる。

関係が生じると臨床観察のデータが汚染されるという妄念に対抗し「関与しながらの観察」とのスローガンが言い立てられて久しい。本書を診断技術の入門書とみなし「関与あってこそ、得られる臨床観察のデータは有用であり」「援助者としての関与が生みだすデータこそ、客観的であり、真理に迫る」と、その技術を散りばめながら縦横に論じている書と読むこともできる。「援助者としての関わりの場」を極力排除したデータに基づく診断習慣、が生み出している悲惨への怒りが伝わってくる。

「私の『型』」という文章が本書の実態を示している。精神療法を手立ての一つとして、援助者としての歴史を刻んできた長老の体現しているものが「型」である。最終の拠りどころである。現在である。そこからすべては眺められる。先生は主に精神分析の世界を歩いてこられたので、記述の内容は、精神分析の歴史上の症例や理論が多くを占める。しかしいまや、それらは「到達した現在」の視点から眺められ参照される、さまざまな小話であり、長老が後進に伝えようとする意味や考えを運ぶ荷車である。意味や考えの拠りどころとはなっていない。文章の言い回しの味わいの中に、祖父の特質である「自身に拠る」爽やかさが読み取れ心地よい。

静かな境地に至った長老にとっては「精神療法の効果はプラセボ反応か」「精神療法の効果は自然治癒より高いか」「作用機序からみた精神療法の種類」「治療者に求められるもの」など初学者からベテランまでが抱くラディカルな問いについても、自己正当化の構えなく、聞き手の成長に役立つようにとの配慮のもと、丁寧に説くことが可能である。

本論である精神療法の技術の細部については、初学者ならわかりやすさに感激し、ベテランならこまやかさと深さに打ちのめされる助言が溢れている。切り取って引用すると味と芳香とを損ないかねず、憚られる。

芳醇の極みとはいえ、本書は一三五頁の小品である。あと三冊続くのだから、この値段はあんまりだ。ひとりでも多くの人に買って・読んでほしいから、中山書店さんオネガイシマスよ。

同時代の精神病理

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読者の想像力をいやがうえにも刺激する構成

精神医学史研究 Vol.18 No.2(2014) 書評

書評者:江口重幸(東京武蔵野病院精神科)

本書は,そのタイトルどおり「同時代の精神病理」を論じた力作である.もうすこし踏み込んで言えば,精神医学・精神病理の現代史を描こうとする冒険的な試みである.まえがきの部分で本書の趣旨はこう記されている.「この三十年ほどの間に,精神の病態がどのように変化し,また,それを取り巻く社会がどのような変貌を遂げたか,この本で扱おうとしているのはそのような問いである」と.こうした視点から著者は,精神医学の前史から始め,変貌する病態,つまり境界例,神経症概念の解体とトラウマ,「うつ」の増加と変容,統合失調症の変化,自閉症スペクトラム障害の出現の現象等を,現代思想とをからめながら,大胆としかいえないルートをたどって横断していく.
ところで,「この三十年」というのはどのような時代だったのだろう.良くも悪しくもその期間に決定的なインパクトを与えたのは,1980年に出現したDSM-IIIだったのではないか.当初わが国の臨床家は冷笑をもって迎えられたが,これによって精神医学的知の産出国がヨーロッパからアメリカに移り,しかもそれはさまざまな専門家の意見調整や折衝を経て何年か毎に改訂され,新たなものは以前の基本的視点から大きく変容し,旧ヴァージョンは顧みられることもなくお蔵入りする…という,評者(私)の世代(1977年卒業)の精神科医からすると考えてもいなかったような事態が,着実に進行し,今や精神医学の臨床から地政学までを一変させてしまった.つまり,著者が言うように精神の病態とその基底の社会ばかりでなく,精神科医の視点や精神医学の枠組み自体が大きく変容しているのである.このように激しく流動する現実を切り取るためには,映画のアクションシーンを撮るカメラワークではないが,動く被写体を,撮影する側も同じように動きながら映しだしていくしかない.
しかも著者は,線状に段階的に連なる歴史の部分として現在=「モダン」を見るのではなく,いわばさまざまな要素が同時並行的に折り重なり,共存するものとして見ようとする.それが副題にある「ポリフォニー」が含意するものである.
著者はこうした基本的な視点から,ある時は臨床事例という「内部」のコースを通って,ある時はまったく「外部」から眺めるという,鳥瞰図と虫瞰図を組合わせるアクロバティックな手法で論じ,しかもところどころ著者の専門とする精神分析的視点が色濃く溢れだして,読者の想像力をいやがうえにも刺激する構成になっている.
評者(私)は1日1章ずつ読み進んだが,「臨床の場で,精神医学は」(序章),「変容する病態と社会」(第1章),「同時代の病い―いま何が起きているか」(第2章)までの,いわば本書の全体像を示す問題提起的なブロックがあり,ついで,「心因と時代」(第3章),「神経症という不思議」(第4章),「青年の近代」(第5章)という前半の1ブロックと,「知,メランコリー,内因」(第6章),「社会の中の「うつ病」」(第7章),「時代は何を失ったか―インファンティアとホモ・サケル」(第8章)という中間のブロック,そして,力のこもった「時代の中の統合失調症」(第9章)と,「自閉症スペクトラム障害と二つの穴」(第10章)の2章.こうした登攀路をたどることになる.その後,再度円環をなすように冒頭の問題提起が現われ,「ポリフォニーとしてのモダンと精神病理」(第11章),終章の「来るべき精神病理学のための覚書」にいたる.フロイトからラカン,オルテガからギデンズ,バフチーンからベンヤミン,ルジャンドルからアガンベン等々,数多くの人間科学的知のルートを示しながら,時代とともに大きく変貌を遂げている精神病理,精神医学,精神科臨床という領野を,果敢に縦走していくのである.読者はその終章の「覚書」にたどり着いた時,その次のラウンドは,筆者が本書で打ち込んだいくつかの目印を標識に,自分自身が独自なルートでたどらなければいけないということを改めて自覚することになる.同時代史は読者それぞれが描かなければならないものであり,しかもそれは大きな歴史的・社会的産物ではあるけれど,そこに参画している臨床家や研究者の手にも,その一部はゆだねられていることを,本書は力強く指し示しているように思う.


決して高踏的とならず、明晰な言葉でつづられ、臨床的明察がちりばめられている

こころの科学 No.177/09-2014 ほんとの対話

書評者:内海健(東京藝術大学保健管理センター)

ある集まりで、口さがない後輩がにやにやしながら、「今度は何が終わるのですか?」と話しかけてきた。髪も眉もすっかり白くなったが、この悪意のない傍若無人さは、三〇年前と変わらない。万年青年といえば聞こえはよいが、もう還暦も間近である。
「今度は何が終わるのですか?」というのは、私がことあるごとに、「分裂病の消滅」であるとか、「歴史の終わり」などとふれまわっていることを郷楡したのだろう。だが、私にしてみれば、それほどたいそうなことをいっているつもりはない。統合失調症の軽症化はすでに半世紀以上前から始まったことであり、「歴史の終わり」にしても、フランシス・フクヤマが提唱したのが二五年前のことである。
いわずもがなのことをつい口にしてしまうのは、多くの人たちが目の前でまさに起こっていることをみようとしないからである。少なくとも私にはそのようにみえる。だが、そうはいっても、「終わった」といっているばかりでは、何も始まらない。そこで「ポストモダン」という手っ取り早い言葉を、さして吟味もせず用いることにした。本書を読んだ今となって、私はとても恥ずかしい思いをしている。
言葉はきちんと定義して使うべきである。そのことは学問でも臨床でも、あたりまえのことである。ただ、定義にこだわるあまり、つまらないところをぐるぐるまわっているだけの議論がいかに多いことか。フンボルトは「言語はエルゴンではなく、エネルゲイアである」、つまり使用することこそが言語であるといっていたではないか。
それをよいことに、念仏のように「ポストモダン」と唱えていれば、そのうち展望が拓けるだろうという甘い考えに身をゆだねていた。ありていにいえば「モダン」の意味するところさえ、たいして吟味してこなかったのである。それに対して本書では、「モダン」という言葉のもつ意味がまず念入りに吟味されている。著者によれば、それは少なくとも七つのアスペクトをもっているという。その一つひとつが単に終わったとも続いているともいいがたい。たとえば「資本」についていうなら、国家ですら制御できないまでに巨大化しつつ、超低金利が示すように、増殖というその本性が瀕死の状態である。
ここ三〇年あまりの間、精神科臨床は劇的に変化した。二大精神病を基軸として、器質性精神病と神経症をその両脇に配置した疾病分類学がとうにゆるぎ始めている。内因性という用語が死語扱いとなり、統合失調症も気分障害も劇的に軽症化した。他方で、境界例、パーソナリティ障害、解離性障害、トラウマ、発達障害といった新しい病態が次々に押し寄せてくる。それに対して、精神医学は対症療法的、リスク管理的な彌縫策でしか対処しようとしてこなかった。目の前に起きていることを見ようとしていないといったのは、こうした現況のことである。
だが、ここで「ポストモダン」というお手頃な用語に飛びつくのは安易といわれてもいたしかたない。そして「終わった」とはいわないのが著者の思考のタフなところである。モダンをポリフォニーとしてとらえなおし、あざなえる縄を丹念にほぐし、端正な織物へと織り上げた。背景には深い見識を携えながら、決して高踏的とならず、明晰な言葉でつづられ、臨床的明察がちりばめられている。思考の緊張を要求されるが、読者のことを考えてか、各章が比較的短く設定されている。
あるASDの女性が、自分の思考を、空白の升目のないパズルのようなものであると述べた。余白がないから、組み替えたり、想像したりすることができない。そして人に言われたらその通りに受け取ってしまうのだという。彼女はこうした特性に気づき、そこからの展開を模索している。私との対話の中で、余白の存在とその意義を見出してくれたのかもしれない。
われわれは今、強大な思考停止概念に取り巻かれている。それは「脳」であり、「統計的エビデンス」であり、そしてDSMである。余白を埋め尽くされ汲々としているのはわれわれではないだろうか。もしまだ考えることを捨てないのであれば、そのための余白を本書が与えてくれるにちがいない。

精神科医療面接

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半世紀前にこんな本があったらなあ

こころの科学 No.162(2012年3月号) ほんとの対話より

評者:神田橋條治(伊敷病院)

半世紀前、ボクらが新人だった頃は、DSMもEBMもマニュアルもない、牧歌的な時代でした。新入局者へのオリエンテーション・レクチャーを受けた後は、入院患者を割り当てられて、見よう見まねで診療したり、無給医なので生活費稼ぎにパートに出かけ、そこでは内心ビクビクしながらも一人前の顔をして診療していました。

全国どこの医局にも、研究などおざなりにして医局の雑用と臨床だけを専らにしている先輩がいました。その先輩の経験談や助言を受け入れたり密かに批判したりしながら、ボクらは自分の臨床での知と技とを育てていきました。そうした素浪人のような中堅が住みづらくなって去った後、大学の臨床技術は押しなべて、荒削りで味わい薄いものになりました。

臨床面接は、情報の受信と発信、言い換えると診断と非物質的治療との混在であり、到達目標は両者の融合状態です。技術がきめこまやかになると、治療者側の体験としては技が「前意識」領域となり、患者側の体験としては面接が「確かな雰囲気」の味になるのが理想像です。

個人クリニックを開業して一六年になる中嶋さんのこの本は、「精神科臨床ですぐに役立つ方法を……平均五分という条件の中で、最善の面接ができる方法」を助言する、経験談です。ただし、昔の先輩の経験談とは異なる点があります。

まず第一に、片言隻句であった昔の先輩と異なり、中嶋さんは現場での実践技術の完成形を志しておられるようなのです。「網羅性に欠ける結果になった」との反省が裏書きしています。その志は、新人の時から一貫しているらしく、VI章「面接の学び方」には、書物を通じての学習、陪席、スーパーヴィジョン、ケースカンファレンス、ケースセミナー、医局やナースステーションでの雑談、経験から学ぶ、などのトピックがご自身の経験談として語られています。

第二に、ボクらが先輩の助言に対して、密かに批判したり自問自答したりした体験と同じものが、ご自身の助言に添えられているのが特徴的です。おそらく中嶋さんは、実践技術習得の彷徨の道筋で、さまざまな自問自答を続けてこられたのでしょう。それが開示されることで、読者は同種の自問自答へと誘われます。中嶋さんは、自分の助言がマニュアルとして使われることを危惧しておられるのでしょう。そうした精神科臨床家としての配慮が心地よい雰囲気を生み出しますし、技術修練への真摯な姿勢が伝わります。

第三に、目配りのきめのこまやかさが際立っています。例証として、IV章「むずかしい場合の対処法」の小目次を挙げてみましょう。自殺の訴えがみられる場合、自殺意図で来院した/運ばれてきた場合、興奮している場合、不満/怒りを訴える場合、黙っている場合、不安が強い場合、診察室で泣く場合、演技的な場合、治療/入院を拒否する場合、自己流の治療を希望する場合、軽症なのに休職/診断書を希望する場合、転院を希望する場合/本人の希望で転院してきた場合、過量服薬の傾向がある場合、面接者が共感できない場合、話が長い場合。いずれも精神科外来での悩ましいトピックです。

第四は、「面接の基本形」と題して、面接の実際のモデルが提示されて説明されていることです。類書に見られない斬新な工夫です。現場での教育ではない書物での記述を実地での助言に近づけようとする、実務家ならではのアイディアです。ここから先には陪席しかないでしょう。昔、パデル先生が「ジョージ、医学教育に講義という方法が使われるようになってから、医学のdeteriorationが始まったと思わないかい?」とおっしゃったことがあり、先生の講義が常に聴衆への語りかけのスタイルであるのが腑に落ちました。そして、映画『赤ひげ』を連想しました。あそこでの教育の中心は、陪席と手伝いです。本書を読みファンとなった初心者が、中嶋さんのクリニックでの陪席を求めたら、どうぞ歓迎してあげてください。だって、中嶋さんの工夫の成果ですし、良い本を出すのは誘惑行為でもあるのです。しかも、沖縄まで出かけようとは、なまなかの熱意ではできないことです。半世紀前にこんな本があったらなあ。

精神医学の知と技 精神症状の把握と理解

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『こころの科学』2009年5月号(No.145)「ほんとの対話」(書評欄)より

評者:神田橋條治

時を越えて読み継がれ導きの役をなす書籍を「古典」と呼ぶ。初版の時点ですでにその位置を約束される著作が稀にある。

待望久しい、原田憲一先生による「症候学」を手にした。嬉しい。症候学は精神医学という文化の始原であり基盤である。症候学がなければ精神医学はなく、症候学が揺らげば精神医学も不安定になる。昨今の様相の一因である。
症候学の作業は精神現象を「認識」して「記述」することであるが、両者は互いに影響しあうので、作業は錯綜する。言葉が参与するからである。あらかじめ輪郭定かに存在する事物を拾い集めて命名する作業ではなく、連続と流動とを本質とする現象界を、言葉で切り分けて取り出す作業だからである。

その作業は古人により営々と続けられてきている。それをまず押さえておかねばならない。文化の継承である。
そのうえで、現在の精神医学の暗黙の要請を読み取り、さらには、自身の体験との整合性に照らしながら、新たな認識と記述とを組み立てねばならない。当然そこには、未来への視点も必要である。

(中略)

原田先生は自身の作業を客体化して読者に提示してくださっている。おそらく、先生の誠実さの現れであり「真理への愛」の延長なのだろうが。この姿勢のせいで、「記述現象学」と自覚される先生の世界が「フッサール現象学」へも開かれている。さらに、先生の誠実さは語られる言葉の一つひとつに重みと背景とを含ませる、あるいは匂わせる。

本書は、中山書店の「精神医学の知と技」というシリーズの第一巻である。圧巻の嚆矢であり、続く人々の苦労が思いやられる。

(後略)