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発達心理学の新しいパラダイム

発達心理学の新しいパラダイム published on

拡張された関係性への確たる視線を感受 「人間とは何か」ということを問うこと

図書新聞3356号(2018/6/23)

評者:黒川 類

発達心理学というカテゴリーは、わたし(たち)にとって、あまり馴染みがないかもしれない。文字通り、人間の発達過程を心理学的手法で分析していくことなのだが、本書の巻頭に配置されたヴァスデヴィ・レディの基調講演「乳児期におけるかかわることと心への気づき」や松沢哲郎のミニ・レクチャー「想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心」という二つの論稿の表題から類推できるように、乳児期の成長過程やチンパンジーの生態を通して、人間とは何かを問うていくものとしてあるといっていいかもしれない。乳児との「かかわり」と、その応答・反応の観察を通して、ヴァスデヴィ・レディは次のように述べていく。
「私が提唱したいのは、社会的認識がどのように発達するのか理解するためには『二人称的かかわり』の理解が真に必要で、またそこからスタートしなければならないということです。(略)『二人称的かかわり』とは、単に他者に注目を向けたり、他者に向かって指示をしたりすることではなく、『かかわる』ことなのです。いわゆる『むすびつき(connection)』であり、『相互的関与』なのです。」
ここで述べていることは、発達心理学というカテゴリーを超えて、拡張された関係性への確たる視線をわたしは感受することになる。後段のディスカッションのなかで、レディは、「最近、乳児だけでなく大人同士のかかわり――認知症の人、普通の定型的な大人――についても多く考察してきている」と語っているからだ。もちろん、心理学者は臨床医ではないが、ここで示唆していることは、実に刺激的なことだと思う。文学的表現(小説作品)では、一人称文体か、三人称文体が通例使われ、二人称文体は読み手に混乱を与えかねないので、よほど熟達していなければ、避けるべきなのだが、認知症の人や、普通の大人に向きあうには、「わたし」と「あなた」という関係性を醸成していかない限り、距離が近接していくことはないのは明白だ。このことは、まさしく、心理学や医療だけではなく、わたし(たち)が日々、関わっていく人間関係にもいえることだといいたい。
松沢のレクチャーは、「人間の体も、そして心のきずなもまた、進化の産物である」という視点に立って人間に一番近い存在だというチンパンジーの生態へと接近していく。チンパンジーやオランウータンの産まれたばかりの子供は、「1日24時間、生まれて3ヶ月の間、一時もお母さんから離れること」はないという。それは、「人間は地上性」での生活だが、「チンパンジーやオランウータンは樹上性」だからだ。そこで導きだされることは、チンパンジーの産まれたばかりの子供は「仰向け」では安定しないが、人間の乳児は、「仰向け」でも安定していられるということだ。この当たり前のことが、「人間とは何か」ということを解く方途となっていく。「仰向け」であることによって「豊かなコミュニケーション」がとれるようになり、「仰向けの姿勢が人間を進化させた」と松沢は指摘していく。
本書は、公益財団法人中山人間科学振興財団の創立二十五周年を記念する行事として、一六年一〇月に「人間科学における〝二人称的アプローチ〟」と題して行われたシンポジウムを収録したものだ。他に、「無意識的な身体の同調」というものが、「言語を含むシンボリックな社会的コミュニケーション」の前提条件ではないか提起していく下條信輔のレクチャー「こころは孤立しているか?」を収め、レディ、松沢、下條の三人をパネリストとして、佐伯胖が司会を担当、當眞千賀子が通訳・解説をするというディスカッションを最後に配置して、本書は構成されている。
「人間科学」という、一見、堅苦しい概念だが、直截に「人間とは何か」ということを問うことであり、それは、わたしなりに読解していくならば、そもそも人間は政治・経済・社会という広範な領域において、自分たちがどういう存在であるかを捉えきれていないということであり、そのことが、現在という場所を困難な様態にしている遠因であるといっていいはずだ。そのことをわたし(たち)は真摯に自覚すべき段階にあるのだといいたいと思う。


こころの科学 No.198(2018年3月号)「ほんとの対話」より

評者:神田橋條治(伊敷病院)

定価一三八〇円の小さな本ですが、内容の豊かさは抜群です。レディ教授による基調講演に続いて松沢・下條両教授によるミニ・レクチャーが収録されています。そこから第一級の識者たちによる質疑・討論が行われます。的確な相互理解に根差したそれら対話の素晴らしさは読んでいて臨場感にあふれ、脳を忙しくさせられます。中山人間科学振興財団の創立二五周年記念行事にふさわしい濃密さです。昨今の学会シンポジウムのスカスカさを連想して悲しくなります。
濃縮された内容をさらに短く紹介するのは難事ですが、評者が受けた影響を添えて紹介すると、いくらか本質をお伝えできましょう。まずレディ先生は母親としての自身の体験から、乳児は生後九ヵ月にはたしかなコミュニケーションをしていると知り、さらにこまかな観察と論考の末、新生児の段階から「こころ」の発達はあり、かかわりの場での観察すなわち「二人称的アプローチ」でのみ把握できると論じます。松沢先生は京都大学でのチンパンジー研究と周辺の膨大なデータから、出生直後から「こころ」は関係のなかで発達しており、「こころ」の成長はヒト占有でないことを示されます。下條先生は「こころは孤立しているか?」と題されて、これまでの実験心理学や神経学は相互作用の場を排除することでワザワザ重要なデータを見過ごしていると、さまざまな実験データをもとに示してくださいます。お二人の補強によってレディさんの論旨はいっそうわかりやすいものになります。
引き続いて、フロアとの質疑応答が収録されています。発言者はみな一級の識者ですから、質疑は講演内容を拡充するものになっています。雰囲気から察するにみなさんが講演に刺激されて脳が忙しくなり、「発言せずにおれない」気分になられているようです。その内容がさらに豊潤さを加えます。評者にはここから二つの学びがありました。
第一に、上質の知識人には他者のメッセージを理解して受け取ることができ、それに触発されエキサイトする、認識群が身に備わっていること。第二に、みずからの興奮を知的な言語を用いて、しかも相手に理解しやすい表現で送り出す修練ができていること。この二点です。わが身を省みて悲しくなります。この反省は、多くの読者にとって警策の作用がありましょう。一見わかりやすく読みやすいこの本の余徳です。
それぞれのレクチャーの後ろに、おそらく厳選された少しの文献のリストがあります。さらに討論記録の後ろにも文献のリストがあります。外国語を読み慣れた方には貴重な資料でしょうが老人のボクにはもう無理なので、フロアからの発言者のお一人、岩田誠教授の『臨床医が語る認知症と生きるということ』(日本評論社)を購入して、「スゴイ、スゴイ」と宣伝しまくっています。
ボクは対話精神療法を持ち芸としてきました。永年の工夫の結果、言語対話の補助として非言語的かかわりが大切だと痛感し、技法として取り入れることが増えてきました。拠りどころとする心理学理論も、精神分析理論から間主観性を重視するほうに傾いてきました。一人称の心理学から「二人称的アプローチ」へです。この本との出会いが「百尺竿頭の一歩」となりました。日常診療での非言語的かかわりと場の設定が精神療法の核心であり、理論や技法や対話はきわめて優れた補助手段であり、薬物と同じ位置に置くのが有用だとの心構えになりました。ふと、ボクの臨床はすでにそうなっていたことに気がつきました。現実と理解とがしっくりすると肩の荷がおり楽になると、知ってはいたけど、わが身にとって新鮮な体験です。