半世紀前にこんな本があったらなあ
こころの科学 No.162(2012年3月号) ほんとの対話より
評者:神田橋條治(伊敷病院)
半世紀前、ボクらが新人だった頃は、DSMもEBMもマニュアルもない、牧歌的な時代でした。新入局者へのオリエンテーション・レクチャーを受けた後は、入院患者を割り当てられて、見よう見まねで診療したり、無給医なので生活費稼ぎにパートに出かけ、そこでは内心ビクビクしながらも一人前の顔をして診療していました。
全国どこの医局にも、研究などおざなりにして医局の雑用と臨床だけを専らにしている先輩がいました。その先輩の経験談や助言を受け入れたり密かに批判したりしながら、ボクらは自分の臨床での知と技とを育てていきました。そうした素浪人のような中堅が住みづらくなって去った後、大学の臨床技術は押しなべて、荒削りで味わい薄いものになりました。
臨床面接は、情報の受信と発信、言い換えると診断と非物質的治療との混在であり、到達目標は両者の融合状態です。技術がきめこまやかになると、治療者側の体験としては技が「前意識」領域となり、患者側の体験としては面接が「確かな雰囲気」の味になるのが理想像です。
個人クリニックを開業して一六年になる中嶋さんのこの本は、「精神科臨床ですぐに役立つ方法を……平均五分という条件の中で、最善の面接ができる方法」を助言する、経験談です。ただし、昔の先輩の経験談とは異なる点があります。
まず第一に、片言隻句であった昔の先輩と異なり、中嶋さんは現場での実践技術の完成形を志しておられるようなのです。「網羅性に欠ける結果になった」との反省が裏書きしています。その志は、新人の時から一貫しているらしく、VI章「面接の学び方」には、書物を通じての学習、陪席、スーパーヴィジョン、ケースカンファレンス、ケースセミナー、医局やナースステーションでの雑談、経験から学ぶ、などのトピックがご自身の経験談として語られています。
第二に、ボクらが先輩の助言に対して、密かに批判したり自問自答したりした体験と同じものが、ご自身の助言に添えられているのが特徴的です。おそらく中嶋さんは、実践技術習得の彷徨の道筋で、さまざまな自問自答を続けてこられたのでしょう。それが開示されることで、読者は同種の自問自答へと誘われます。中嶋さんは、自分の助言がマニュアルとして使われることを危惧しておられるのでしょう。そうした精神科臨床家としての配慮が心地よい雰囲気を生み出しますし、技術修練への真摯な姿勢が伝わります。
第三に、目配りのきめのこまやかさが際立っています。例証として、IV章「むずかしい場合の対処法」の小目次を挙げてみましょう。自殺の訴えがみられる場合、自殺意図で来院した/運ばれてきた場合、興奮している場合、不満/怒りを訴える場合、黙っている場合、不安が強い場合、診察室で泣く場合、演技的な場合、治療/入院を拒否する場合、自己流の治療を希望する場合、軽症なのに休職/診断書を希望する場合、転院を希望する場合/本人の希望で転院してきた場合、過量服薬の傾向がある場合、面接者が共感できない場合、話が長い場合。いずれも精神科外来での悩ましいトピックです。
第四は、「面接の基本形」と題して、面接の実際のモデルが提示されて説明されていることです。類書に見られない斬新な工夫です。現場での教育ではない書物での記述を実地での助言に近づけようとする、実務家ならではのアイディアです。ここから先には陪席しかないでしょう。昔、パデル先生が「ジョージ、医学教育に講義という方法が使われるようになってから、医学のdeteriorationが始まったと思わないかい?」とおっしゃったことがあり、先生の講義が常に聴衆への語りかけのスタイルであるのが腑に落ちました。そして、映画『赤ひげ』を連想しました。あそこでの教育の中心は、陪席と手伝いです。本書を読みファンとなった初心者が、中嶋さんのクリニックでの陪席を求めたら、どうぞ歓迎してあげてください。だって、中嶋さんの工夫の成果ですし、良い本を出すのは誘惑行為でもあるのです。しかも、沖縄まで出かけようとは、なまなかの熱意ではできないことです。半世紀前にこんな本があったらなあ。