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外来精神科診療シリーズ メンタルクリニック運営の実際

外来精神科診療シリーズ メンタルクリニック運営の実際 published on
精神医学 59巻11号(2017年11月号)「書評」より

評者:神田橋條治(伊敷病院)

「よの中に交わらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる」(良寛)。いのちにとって「閉ざす」ことが必然です。そのなかで成長と熟成が進みます。「開く」は,成長と熟成とに寄与する次の策です。「閉ざす」自体が損なわれるといのちが自立性を失います。文化も同じです。開化期の先人たちは,「攘夷」という被害妄想のかわりに「和魂洋才」との心構えをもつことで,「鎖国」のなかで熟成してきた日本文化を守りました。当時の被植民地諸国の見聞からの知恵だったのでしょう。からだ→こころ→魂と並べたとき,その順に「閉ざす」が大切になります。「魂だけは売り渡さない」はさまざまな極限状況で現れる決意です。「身は売っても思いは主さまだけのもの」との遊女の覚悟もそのひとつです。魂を守る決意には切ない気分があります。グローバル化の流れやAIの発展がこころの領域にまで支配を広げてきたので,切なさは日常に瀰漫してきました。最近の奇妙な社会現象の多くを,切なさへの対処行動,せめて魂だけは守ろうとする工夫,として眺めると腑に落ちる気分が湧きます。
精神科臨床を選択した人々の多くは,からだ→こころ→魂の総合体を援助する志向を持っています。いのちの鎖国文化を援助したいとの意図を持つ資質です。いずれが先かは微妙ですが,我が内なる鎖国文化を維持し熟成したいとの志向と互いに響き合います。「わたしの精神医学」です。内なる鎖国文化が形を現し,幾つかの援助手技を手に入れた人は,クリニックを立ち上げます。鎖国環境の設定です。精神科臨床のロマンですから,当然の流れです。
グローバル化の奔流がロマンを壊し始めました。診断の領域での世界標準化すなわちDSMと援助手技の領域でのEBMです。診断については,表向きのDSMを尊重しながら援助作業においてはわたしの内なる精神医学を用いるという二重帳簿で凌ぐことができます。しかもそれは精神科を選んだ資質の中にある,裏世界嗜好を充たしさえします。深刻なのは援助手技についてです。中でも精神薬物療法については甚大です。手持ちの援助手技の中で薬物を主な手立てにしている治療者は,洋才に侵食されて魂の危機にあります。
ところで「エビデンス」なるものの成立過程を眺めてみると,それは正規分布の両端を切り捨てて作った「多数決」の成果です。多数決が参考資料以上の力を持つと薄っぺらな全体主義の本流を形成し少数者切り捨てに至ることはすべての世界で具現されています。この気分が医療を覆うようになると,「少数者への援助」という医療の原点が失われ,医学は疫学になります。珍しい疾患の見落としや頻度の稀な重大な副作用の見落としとして臨床現場で現れています。臨床は五感と第六感とを総動員して行うアートです。魂の営みです。その営みからの経験が各人の体験として刻み込まれて鎖国文化の中の「わたしのエビデンス」となっています。職人の「勘どころ」です。
薬物については事態はさらに深刻です。科学主義・客観化に根ざしているからです。これに侵食されて「薬物依存」「薬物乱用」風医療になってしまっている治療者はすべての医療分野に蔓延しています。向精神薬については,からだ(脳)への作用に限って客観化が行われ,しかも関連する変数を極力少なくするという科学実験の原則に沿ってエビデンスが得られています。その判定はこころの変化,しかも辛うじて有意差が出る程度の微かな多数決のデータです。現場では個体を共同研究者にして,その主観的判断(こころ→魂)を組み込みながら処方を決めて,テーラーメイドのエビデンスを積み上げていくのが医療です。
皆さん気づいておられますか? わたしたちは分担執筆で編纂された全書の類を購入しても,たまに参照するだけでおおかたは本棚の肥やしになっています。折に触れてページをめくるのは単著です。単著による精神医学教科書はしばしば座右の書になります。信者になっているわけではありません。その著者のなかで熟成した鎖国文化に触れることで自分の鎖国文化を省みる欲求ゆえです。このシリーズは分担執筆であるけど分担執筆ではありません。五人の「野武士」の方々が,精神医療の現状への危機感から立ち上げたシリーズです。野武士とは,鹿鳴館の賑わいを横目に見ながらも,自らの鎖国文化を育成し,それに支えられて「開く」が自在になり,被害感なしに,DSMやEBMの有用なところは取り入れて成長と成熟を歩み続けている人の謂です。「和魂洋才」です。シリーズは全10冊からなっており,最後の巻にシリーズ全体の執筆者一覧が載ります。野武士五人の方々の論述はもちろんですが,その他にも多くの方が複数の論述を寄稿しておられ,それらを縦断して読むことで多種多様な鎖国文化に触れることになります。単著の乱舞です。全10冊が医局の本棚にあると,ベテランの精神科医にとってはさまざまな鎖国文化を批判的に読むことができます。そのことはとりもなおさず自らの鎖国文化を省みる作業になります。歩きはじめの精神科医にとっては,自分の未来にさまざまの道が開けていることが見えて,こころと魂が定まります。なかにはどの道も自分の資質と馴染まないと分かって,脳科学の方向を選ぶかたもありましょう。それもまた素晴らしい選択です。
最後に,このシリーズには当事者の寄稿もあります。なかでも小石川真実という方の二本の論文「『患者を良くする』ことを念頭においた診断を」(診断の技と工夫 214頁)「本気でわかろうとしてくれる人が一人でもいると患者は立ち直れる」(精神療法の技と工夫 226頁)を是非お読みください。標準化とEBMの「洋才」に浮かれた被植民地化された精神科臨床でからだもこころもモミクチャにされながらも,辛うじて魂だけは守り抜いた人の「叫び」です。「わたしならどうするか?」と自問して下さい。魂までも毀損された「声なき声」が現場に溢れておりテーラーメイドの援助で叫びが蘇る経験は非医師の報告に散見します。
最近注目をあびている「オープンダイアローグ」という手法は見かけとは逆に,その個体独自の鎖国文化の回復が本質です。そう考えると,あの目を見張る効果が腑に落ちます。


クリニックを開きたいと願っている医師たち,あるいは精神科外来自体に関心を持つ医師たちにとっては必読の書

精神医学 Vol.58 No.5(2016年5月号) 書評より

書評者:松下正明(東京大学名誉教授)

評者はかつて,クレペリンにせよヤスパースにせよ従来の精神医学は精神病院に入院している患者を基礎に築かれてきたが,これからは外来診療を主とした精神医学が構築されるべきで,その内容は随分と変わってくるだろう,極端な言い方をすれば,疾患慨念自体,あるいは疾患名も一変するのではないかと,述べたことがある。将来は,精神科医療は外来診療中心の時代となるという脈絡の中での発言であった。
このたび,本書を含めて,「外来精神科診療シリーズ,全10冊」が刊行されることになり,いよいよ時期到来かと内心喜んだものであるが,予想通り,シリーズが刊行されてまだ半ばではあるが,すでにしてメンタルクリニックを中核とした精神科外来診療の時代の出現を予感させる出来栄えである。
編集主幹の原田誠一さんが「刊行にあたって」で,この企画は,「精神科クリニックでの実践を通じて集積されてきた膨大な〈臨床の知〉を集大成して,世に間うこと」,「現場に根差した〈臨床の知〉をひっくるめて示し,現在の正統的な精神医学~精神医療に対する自分たちなりの意見表明や提言をすること」にあると述べられていることも,精神科外来診療での〈臨床の知〉が,これからの精神医学の革新につながることを心ひそかに断言した自負に違いない。
本シリーズは,メンタルクリニックにおける精神科外来診療にみる新しい臨床の知から,診断の薬物療法,身体療法,精神療法,あるいは東日本大震災における精神科外来診療やギャンブル依存症などに至るまで,その関心の広さは大きいが,とりわけ今回書評の対象とする本書はメンタルクリニックの運営の実際についての知と技の詳細を示して尽きない。
本書は,計23の論考と28のコラムからなり,「クリニック開業の条件を考えてみよう」「クリニックの外的構造」「クリニック診療の内的構造」「クリニックと地域医療」「クリニックのリスク管理,安全の確保」「クリニックの経営」「クリニック開業医が担うもの―診療・経営以外のあれこれ」などといったタイトルを持つ10の章に分けられている。表題の目新しさに惹かれて本文を読み,またその内容のユニークさに一驚してしまう。
日本での精神科関連の全集では初めての試みと思われる本シリーズは,すでに開業しているメンタルクリニックにとってはおそらく座右の書であり,これからクリニックを開きたいと願っている医師たち,あるいは精神科外来自体に関心を持つ医師たちにとっては必読の書となるに違いない。

西園精神療法ゼミナール 1 精神療法入門

西園精神療法ゼミナール 1 精神療法入門 published on

芳醇の極み 静かな境地に至った長老が語る入門書

こころの科学 No.154/11-2011 ほんとの対話より

評者:神田橋條治(伊敷病院)

入門書は長老によって書かれるべきだ」が読後の感想である。多くの入門書は、ベテランあるいはベテランと自覚する人々、弟子を育てている最中の人によって書かれる。資料とされるのは、みずからの成長の経緯の記憶と、育成中の弟子の観察である。それに比して、長老の資料には、ベテランの域に成長した弟子たちの成り行きと現状観察が大きく加わる。前者は親が書いた育児書であり、長老によるそれは祖父が語る育児の知恵である。

半世紀ほど前、僕らが師事していらい今日まで、先生は一貫して治療者であり教育者である。八〇歳を超えたいまも、クリニックで主治医として診断をなさっており、往診をされることもあると聞く。加えて、併設する「心理社会的精神医学研究所」で毎水曜日夜「精神療法講座」を開かれ、すでに一一年目を迎えている。講師陣は、広義の精神療法や関連する諸分野の錚々たるメンバーが連なっている。そのなかの西園先生ご自身の担当分が、四冊組で出版されることとなり、幕開けが本書である。

「皆さんはDSMやICDなどの操作的診断をすることになると思いますが、臨床的診断をするうえで症状の把握のために、それぞれいろいろな『型』をおもちだと思います。ここでは私の『型』をお話しします。これは、私が長年の患者さんとの経験によりつくったもので『こうしなくてはいけない』というものではありませんが参考にして下さい」。この文章に続けて、①睡眠障害、②食欲、③不安の有無、④抑うつ感情と自殺念慮の有無、⑤対人関係上の苦痛、⑥精神病的考え、⑦記憶力・計算力障害の有無の項目が語られ、⑦については「身体の質問から始めて、『気持ち』『対人関係』という患者さんの主観の世界にだんだん入っていって、コミュニケーションがついた後に初めて、こうした欠陥に関することを訊ねるという配慮が必要です」と、関係づくりをなにより大切にされる先生の姿勢が説かれる。

関係が生じると臨床観察のデータが汚染されるという妄念に対抗し「関与しながらの観察」とのスローガンが言い立てられて久しい。本書を診断技術の入門書とみなし「関与あってこそ、得られる臨床観察のデータは有用であり」「援助者としての関与が生みだすデータこそ、客観的であり、真理に迫る」と、その技術を散りばめながら縦横に論じている書と読むこともできる。「援助者としての関わりの場」を極力排除したデータに基づく診断習慣、が生み出している悲惨への怒りが伝わってくる。

「私の『型』」という文章が本書の実態を示している。精神療法を手立ての一つとして、援助者としての歴史を刻んできた長老の体現しているものが「型」である。最終の拠りどころである。現在である。そこからすべては眺められる。先生は主に精神分析の世界を歩いてこられたので、記述の内容は、精神分析の歴史上の症例や理論が多くを占める。しかしいまや、それらは「到達した現在」の視点から眺められ参照される、さまざまな小話であり、長老が後進に伝えようとする意味や考えを運ぶ荷車である。意味や考えの拠りどころとはなっていない。文章の言い回しの味わいの中に、祖父の特質である「自身に拠る」爽やかさが読み取れ心地よい。

静かな境地に至った長老にとっては「精神療法の効果はプラセボ反応か」「精神療法の効果は自然治癒より高いか」「作用機序からみた精神療法の種類」「治療者に求められるもの」など初学者からベテランまでが抱くラディカルな問いについても、自己正当化の構えなく、聞き手の成長に役立つようにとの配慮のもと、丁寧に説くことが可能である。

本論である精神療法の技術の細部については、初学者ならわかりやすさに感激し、ベテランならこまやかさと深さに打ちのめされる助言が溢れている。切り取って引用すると味と芳香とを損ないかねず、憚られる。

芳醇の極みとはいえ、本書は一三五頁の小品である。あと三冊続くのだから、この値段はあんまりだ。ひとりでも多くの人に買って・読んでほしいから、中山書店さんオネガイシマスよ。

精神科医療面接

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半世紀前にこんな本があったらなあ

こころの科学 No.162(2012年3月号) ほんとの対話より

評者:神田橋條治(伊敷病院)

半世紀前、ボクらが新人だった頃は、DSMもEBMもマニュアルもない、牧歌的な時代でした。新入局者へのオリエンテーション・レクチャーを受けた後は、入院患者を割り当てられて、見よう見まねで診療したり、無給医なので生活費稼ぎにパートに出かけ、そこでは内心ビクビクしながらも一人前の顔をして診療していました。

全国どこの医局にも、研究などおざなりにして医局の雑用と臨床だけを専らにしている先輩がいました。その先輩の経験談や助言を受け入れたり密かに批判したりしながら、ボクらは自分の臨床での知と技とを育てていきました。そうした素浪人のような中堅が住みづらくなって去った後、大学の臨床技術は押しなべて、荒削りで味わい薄いものになりました。

臨床面接は、情報の受信と発信、言い換えると診断と非物質的治療との混在であり、到達目標は両者の融合状態です。技術がきめこまやかになると、治療者側の体験としては技が「前意識」領域となり、患者側の体験としては面接が「確かな雰囲気」の味になるのが理想像です。

個人クリニックを開業して一六年になる中嶋さんのこの本は、「精神科臨床ですぐに役立つ方法を……平均五分という条件の中で、最善の面接ができる方法」を助言する、経験談です。ただし、昔の先輩の経験談とは異なる点があります。

まず第一に、片言隻句であった昔の先輩と異なり、中嶋さんは現場での実践技術の完成形を志しておられるようなのです。「網羅性に欠ける結果になった」との反省が裏書きしています。その志は、新人の時から一貫しているらしく、VI章「面接の学び方」には、書物を通じての学習、陪席、スーパーヴィジョン、ケースカンファレンス、ケースセミナー、医局やナースステーションでの雑談、経験から学ぶ、などのトピックがご自身の経験談として語られています。

第二に、ボクらが先輩の助言に対して、密かに批判したり自問自答したりした体験と同じものが、ご自身の助言に添えられているのが特徴的です。おそらく中嶋さんは、実践技術習得の彷徨の道筋で、さまざまな自問自答を続けてこられたのでしょう。それが開示されることで、読者は同種の自問自答へと誘われます。中嶋さんは、自分の助言がマニュアルとして使われることを危惧しておられるのでしょう。そうした精神科臨床家としての配慮が心地よい雰囲気を生み出しますし、技術修練への真摯な姿勢が伝わります。

第三に、目配りのきめのこまやかさが際立っています。例証として、IV章「むずかしい場合の対処法」の小目次を挙げてみましょう。自殺の訴えがみられる場合、自殺意図で来院した/運ばれてきた場合、興奮している場合、不満/怒りを訴える場合、黙っている場合、不安が強い場合、診察室で泣く場合、演技的な場合、治療/入院を拒否する場合、自己流の治療を希望する場合、軽症なのに休職/診断書を希望する場合、転院を希望する場合/本人の希望で転院してきた場合、過量服薬の傾向がある場合、面接者が共感できない場合、話が長い場合。いずれも精神科外来での悩ましいトピックです。

第四は、「面接の基本形」と題して、面接の実際のモデルが提示されて説明されていることです。類書に見られない斬新な工夫です。現場での教育ではない書物での記述を実地での助言に近づけようとする、実務家ならではのアイディアです。ここから先には陪席しかないでしょう。昔、パデル先生が「ジョージ、医学教育に講義という方法が使われるようになってから、医学のdeteriorationが始まったと思わないかい?」とおっしゃったことがあり、先生の講義が常に聴衆への語りかけのスタイルであるのが腑に落ちました。そして、映画『赤ひげ』を連想しました。あそこでの教育の中心は、陪席と手伝いです。本書を読みファンとなった初心者が、中嶋さんのクリニックでの陪席を求めたら、どうぞ歓迎してあげてください。だって、中嶋さんの工夫の成果ですし、良い本を出すのは誘惑行為でもあるのです。しかも、沖縄まで出かけようとは、なまなかの熱意ではできないことです。半世紀前にこんな本があったらなあ。

精神医学の知と技 精神症状の把握と理解

精神医学の知と技 精神症状の把握と理解 published on
『こころの科学』2009年5月号(No.145)「ほんとの対話」(書評欄)より

評者:神田橋條治

時を越えて読み継がれ導きの役をなす書籍を「古典」と呼ぶ。初版の時点ですでにその位置を約束される著作が稀にある。

待望久しい、原田憲一先生による「症候学」を手にした。嬉しい。症候学は精神医学という文化の始原であり基盤である。症候学がなければ精神医学はなく、症候学が揺らげば精神医学も不安定になる。昨今の様相の一因である。
症候学の作業は精神現象を「認識」して「記述」することであるが、両者は互いに影響しあうので、作業は錯綜する。言葉が参与するからである。あらかじめ輪郭定かに存在する事物を拾い集めて命名する作業ではなく、連続と流動とを本質とする現象界を、言葉で切り分けて取り出す作業だからである。

その作業は古人により営々と続けられてきている。それをまず押さえておかねばならない。文化の継承である。
そのうえで、現在の精神医学の暗黙の要請を読み取り、さらには、自身の体験との整合性に照らしながら、新たな認識と記述とを組み立てねばならない。当然そこには、未来への視点も必要である。

(中略)

原田先生は自身の作業を客体化して読者に提示してくださっている。おそらく、先生の誠実さの現れであり「真理への愛」の延長なのだろうが。この姿勢のせいで、「記述現象学」と自覚される先生の世界が「フッサール現象学」へも開かれている。さらに、先生の誠実さは語られる言葉の一つひとつに重みと背景とを含ませる、あるいは匂わせる。

本書は、中山書店の「精神医学の知と技」というシリーズの第一巻である。圧巻の嚆矢であり、続く人々の苦労が思いやられる。

(後略)