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スーパー総合医 地域包括ケアシステム

スーパー総合医 地域包括ケアシステム published on

体系的に学びたい人にはおすすめ

アンフィニ No.528(2016年秋冬号) BOOKSより

私たちの国が直面している、世界に例のない少子高齢化は誰もが認識するところとなりました。近年はこれらに伴う虚弱(フレイル)化、加齢性筋肉虚弱症(サルコペニア)、認知症などが増加し、健康寿命を延ばすことに加え、たとえ弱ってしまっても、安心して住みなれた地域で住み続けることができるよう、専門職チームの構築とシステムが求められています。これが何度も耳にしてきた「地域包括ケアシステム」です。
本書は、総合診療医向けのテキストとして「地域包括ケアシステム」を学べるよう構成されています。さぞかしハードルの高い内容ではと思いきや「地域包括ケアシステム構築への社会的背景」「地域包括ケアにおける多職種協働」「地域包括ケアの実践」等々、これらにかかわる職種すべてに共通する基礎知識が整理してまとめられており、体系的に学びたい人にはおすすめです。地域包括ケアを支える重要なメンバーである、訪問看護師についても「全年齢層を対象とし、あらゆる疾病や障害のマネジメントと看護を行う」と、しっかりとページを割いて、その役割が記述されています。
特に「在宅での看取りの実際」の項目では、考えさせられました。多死社会の到来により、年間40万人を超える人々の死に場所がなくなるという現実の一方で、先進国ではあり得ないほど死の質が低いということ。これは特定の場で活躍する看護職のみの課題ではないでしょう。看護師による死亡診断への規制緩和の動きも進んでいるなか、私たちもこれらについて改めて向き合うことが求められています。
(田中志保)


地域包括ケアシステムの背景を分析し、取り組みの実際を紹介する

日本医療機器協会広報 No.237(2016年9-10月号) 医書の本棚より

700万人の団塊の世代が75歳以上の後期高齢者となる2025年は、65歳以上の高齢者人口が3,700万人となる。この数字は現在のカナダの人口より多いという深刻な問題を抱えている。この時代の日本の医療は、これまでのように急性期病院での救命・延命・治癒・社会復帰を前提とした医療でなく、高齢者を地域で病気と共存しながらQOLの維持・向上を目指す、いわゆる支える医療提供体制で、この柱となるのが、“地域包括ケアシステム”なのである。
前期高齢者というのは65~74歳の年齢層であるが、本書によれば、このピークが今年、2016年に当たり、その数は日本全体で1,761万人である。老年人口(65歳以上)の割合が7%以上を高齢化社会(aging society)というが、それが14%を超えると高齢社会(aged society)と呼ばれるようになる。ちなみに2010年の国内の老年人口割合は、秋田県が最高で29.6%、最低は沖縄県の17.4%だという。
“地域包括ケアシステム”は、周知のように2025年までの達成目標として掲げられているが、この言葉が指す“地域”というのは、いわゆる中学校区にあたり、これは徒歩なら30分、人口にして約1万人が住む圏域を指し、ここで、たとえ“重度の要介護状態になっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるように、医療・介護・予防・住まい・生活支援を一体的に実現するのが“地域包括ケアシステム”の目指すところなのである。
今後の医療・介護の改革はまさに“地域包括ケアシステム”を目指して実施されていくことになり、しかも、そこには“安全・安心な質の高い医療・介護サービスが効率的・効果的に提供される”ことが基本条件として存在するのだ。そこで重要なのは“医療が地域生活としっかり結びつく”包括的なサービス提供体制の構築が求められていることである。つまり、これまで臓器別専門治療のみに終始し、救命することが至上の役割であった地域医療から、より進化した“高度に進歩した臓器別専門治療が着実に生活につながる”という地域医療の継続を最終目標にした医療の在り方へと転換を図ることが不可欠だという。
本書は7つの章と付録から構成されている。1章で社会的背景を述べた後、2章では地域包括ケアシステムの概念を「医療、介護、生活支援、予防、住居」5つの領域それぞれの立場から論じている。3章では法律の視点から地域包括ケアシステムを捉え、4章と5章では行政や組織、団体がそれぞれ異なる立場から自分たちの役割と具体的な活動内容を語っている。医師だけでなく多職種が連携することで地域包括システムは構築・推進される。看護や介護など多くの職種が語っている構成は斬新と言えよう。
6章は、地域包括ケアシステム実践(成功)例である。地域包括ケアシステム、その概念と理想像はわかっていてもなかなか実施に移せない地域、もしくは構築しようと試みたけれど失敗したという地域も少なくない。微に入り細を穿った成功手法は、全国の地域の参考になるであろう。また地域包括ケアシステムになくてはならない在宅医療の、根幹に位置する「在宅看取り」について文化の視点から述べられているのも興味深い。
なお、付録「地域包括ケアシステムの現状と展望」は本書専門編集の太田秀樹先生と高齢者住宅財団理事長の髙橋紘士先生の楽しい対談である。とかく難しく語られがちな「地域包括ケアシステム」を、たいへんわかりやすく解説していただいている。
地域に根ざす多くの医療従事者達への示唆に富んだ提言が満載の1冊である。
(S.C)

精神医学の知と技 精神科と私

精神医学の知と技 精神科と私 published on

日本の精神医学が歩んだ道を照らし出す

日本医療機器協会広報 No.206(2012年9-10月号) 医書の本棚より

精神科治療の黎明期はまだ手探りの治療が多かった。著者が語る過去の例には、統合失調症患者用の一般向けの電撃療法やインシュリン療法があり、前者はもちろんのこと後者はインシュリン投与で血糖値を下げて患者を昏睡に導き、そこから高張ブドウ糖を静注し、一気に覚醒させるという綱渡り的なものだった。それゆえ、ときどき覚醒がスムーズに行かなくてやきもきしたという著者の述懐がある。
本書は、精神科医として60年の経験を積む著者が、日本精神神経学会の学術総会時に「先達に聴く」というテーマに合わせ過去の仕事を語ったものである。「はじめに」にあるように昭和30~40年代、精神科は最も変化を遂げた診療科であり、その頃から本格的な薬物療法が日本で開始され、うつ病などは外来でも扱えるほど軽症化し、街にも精神科がクリニックとして進出し始め、今ではその数は全国で5,000を超えるまでになっている。
精神病の機序の説明で説得力のあるところは、分裂病の幻聴に言及して、これは病人が他者の話を聞くのではなく、“聞かされる、話しかけられる”という位相のもので、それゆえ、幻聴の多さに比べて、幻視という症状が少ない理由を不思議がるべきではないという。というのも、“聞かされる、話しかけられる”という症状に対応するのは、“他人から見られる、見透かされる”という症状を当てるべきで、それゆえ、そうしたものが幻視として症状化することは難しく、それが幻視の症状の少なさを語っている。ここに紹介されたのは、村上仁教授の学説だが、本書は他にも多くの精神科の泰斗、碩学の業績・学説を手短に紹介し、日本の精神医学が歩んできた道を照らし出しているかのようである。
ところで、著者が初めて著した本は、重症対人恐怖症に関する、『正視恐怖・体臭恐怖―主として精神分裂病との境界例について』(1972年刊)と題する学術書(藤縄昭・松本雅彦・関口英雄氏との共著)である。この本では、患者が対人恐怖で人と目を合わせられないという症状は、背後に自分の目から異様な力が発散されていて相手を傷つけてしまう、という特異な心理が働いているからだという。その根底には、「自我から何かが下界に向かって漏れ出していく」という妄想が潜み、それを著者達は、“自我漏洩症状”と命名した。これは統合失調症の患者特有のものではなく、境界例的な若い患者に見られる病態だという。
現在は薬物療法でかなりの症状が緩和される時代であり、妄想知覚などは、少量のリスペリドンの投与で消失し、幻聴は耳鳴り程度に軽減され、不安も喚起されなくなったという。問題は妄想知覚が消えても過去の妄想が間違いだったという病識に至らない患者が多くいることで、患者のなかには症状が改善された今では薬はいらないと拒否する者も出ている。それはともかく、現在、統合失調症は、向精神薬の著効に加えて疾患の軽症化が拍車をかけ、現在、患者の多くは入院後、2~3ヶ月で退院が可能にまでなっているという。
著者は、薬物によって精神症状が左右され、精神症状のあるものは、脳過程の変化によって直接説明できる段階にまで精神医学が達していると言いつつも、しかし、脳科学は精神とか心とかについて今のところ何も発見しておらず、人の人格と多少とも関係する脳の機能はあるのでしょうか、と疑問を投げかけている。
脳の働きというものと精神の動きというものは男女の間のような深い溝がある。しかし、そこにこそ精神過程を解析する精神病理学の存在意義があるのではなかろうか、本書からはそうした著者の呟きが聴こえてくる。
(S.C)