60年前のパリヘいざなってくれる珠玉の舞台が結晶化された

日仏医学 Vol.38 No.1(2017年3月号) 書評:COMPTE RENDU LIVRESより

書評者:内原俊記(東京都医学総合研究所 脳病理形態研究室 室長)

「ふらんすへ行きたしと思へども、ふらんすはあまりに遠し」と萩原朔太郎がうたった「純情小曲集」が出版されたのは1925年で、この「滞欧日記」の著者が生まれた1923年にほぼ重なる。こうした憧れの対象となる国はフランス以外にあてはまりにくいと感じるのはこちらの贔屓目ばかりではないように思われる。「兄がフランスに留学した頃、医学を勉強する人は99%迄米国を目指した。元来フランスに留学する医者は少数であり、“何故フランスに”の声もあった(803頁)」と実弟の萬年徹が記しているとおりで、「何故フランスに」との問いは我々日仏医学会会員の原点でも、identityでも、目標でもある。米国中心の功利的、効率的、経済優先の価値観は誰にもわかりやすいだけに反論はしにくいが、反論しにくいから正当というわけでもない。それがあたかも普遍的であるかのように喧伝してきた潮流は、政治、ビジネスの世界のみならず、戦後わずか10年で日本の教育、研究の世界にも及んでいた様にみえる。実際、小生がフランスヘの留学を模索していた時期に「憧れだけでフランスに留学してはいけないよ」と諭すかのような忠告をされる方もおられた。価値を直ちに理解しにくい物事に対するこうした冷淡さや無関心は、一層強まっているのかもしれない。それを承知の上で敢えてフランスを留学先に選んだ著者によるこの記録は、当初のフランスヘの漠たる憧れが憧れのみに終わらず、具体的な夢となり結実していった様子を如実に物語る。詳細な記録とそれに値する著者の活動が主役ではあるが、経済的に日本が貧しい時代に留学を支えられたご家族や、さらに日記をワープロのファイルにされた奥様の思いがこうして著者を蘇らせる土台となった。さらに、それを世に送ることを使命とされた中山書店の心意気は、中山人間科学振興財団の御支援のもと、隅々まで心のこもった編集やパリで著者と交流のあった野見山暁治画伯の絵を用いた美しい装丁となって結実している。これらのすべてが揃って、60年前のパリヘいざなってくれる珠玉の舞台が結晶化されたことを悦び、感謝したい。
明治以降、日本人が欧州に対してきた「対欧」のありかたは様々だが、著者は旧制府立高等学校尋常科(現在の中学生に相当)時代に見たフランス映画を契機にフランスに憧れた。その頃からフランス語を学び、1955年フランス政府給費留学生の試験に合格し、33日間の船旅をへて、ついに欧州上陸を果たす。著者の憧れが夢となりこうして実現したのは32歳の時で、1900年に夏目漱石がイギリスヘ留学した33歳とほぼ同じ年齢にあたる。しかし両者の「対欧」の態度は全く正反対といっても良い。漱石への文部省の奨学金は年額1800円で、当時の1円は今の1万円相当とすれば一見高額にみえるが、大学に籍をおいて勉強するには不十分であったという。気候も陰鬱で、四月になっても桜をみることのないロンドンで「句あるべくも花なき國に客となり」の逆説的な句を残している。自ら「下宿龍城主義」と称し、交際を控えて閉じこもるような留学生活を送った漱石の「対欧」は消極的で内向する「耐欧」にとどまった部分が大きいのかもしれない。一方著者の「対欧」は外向的且つ積極的で、好奇心とエネルギーに満ちあふれ、その対象は医学の範囲を遙かに越えていた。パリは風物や歴史に溢れ、春になった明るい街を休む暇もなく、眼に、身体にとりこもうとするエネルギーの塊のように著者は精力的に歩き回り、3足の靴をはきつぶしたという。「ともかく僅か1年間に君くらい勉強もやり、フランス各地を見、ヨーロッパを広く見たひとはなく、驚異的なんだから(672頁)」と同胞に言わしめるほどの好奇心とエネルギーは並大抵ではない。往診の依頼や必ずしも気に染まない観光案内なども含まれるにしても、様々な依頼を断ること無く丁寧に「対応」されたようである。その相手は医学者や科学者のみならず、外交官から芸術家に及び、著者の豊富な話題と落語仕込みの軽妙な語り口が周囲の人々を惹きつけた様子がうかがわれる。実際、それぞれの交流が一度では終わらず、著者へのお声掛かりが増えるにつれて、「対応」日記は加速度的に忙しく密度も高くなっていく。
著者が専門とする神経解剖学が物を対象とする自然科学であるとすれば、土俵を共通にする専門領域での「研究成果」をやりとりすることは基本的には可能なはずである。とはいえ、当時その落差は大きく、欧州の研究室をみて回りながら、その整備された体制を羨ましく思う部分が多かったに違いない。その中で日本人がどうすれば世界に伍してゆけるか、著者が思い悩んだ様子は、漱石の留学中の日記「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ。日本ハ眞面目ナラザルベカラズ 日本人ノ眼ハヨリ大ナラザルベカラズ」(漱石日記 明治34年1月27日)と重なる。しかし漱石が専門とした英文学や、著者が一緒にパリの散策を楽しんだ森有正が取り組んだ哲学とは異なり、科学研究の物質的成果のみであれば切り離した「タコツボ」として扱い易いのかもしれない。しかし、「タコツボでしかありえないもの、をヨーロッパからとにかく学ぶと、それが正にタコツボでしかないのは当然なのである。ヨーロッパでも思想そのものはある意味ではタコツボでしかありえない(森有正、ひかりとノートルダム、筑摩書房、森有正全集3巻 47頁)」。もちろん、とりあえず使えそうなタコツボを日本に持ち込んで利用する意義はあるに違いない。しかし、その「タコツボ」を生み出した欧州の歴史、社会、伝統、意味から一旦遊離せざるを得ない宿命を日本人としてどう咀嚼できるのかを意識した途端、次元の異なる問題が重くのしかかる。自分の研究を含めた科学がタコツボ化する運命にあることを著者は知りながら、社会や伝続から遊離しないタコツボであるためにどうすべきかという問いに対する答えを求めているようにも見える。
小生は1978 - 9年に著者の神経解剖学の講義を受ける機会に恵まれたが「知識のおばけになってはいけない、知恵をつけなさい」と力説されていた。言語化して単離できる知識とは異なり、知恵を体得するのは遙かに難しい。森有正によればフランスの教育は「知識の組織的集積」と「発想機構の整備」という二つの側面に集約されるという。前者の質的量的な入力(知識)の充実があっても、後者の適正な出力(判断、行為)のための知恵がなければ何も動かせないのは、何もフランスに限ったことではあるまい。さらにこうした考え方の背景には“懐疑主義”を背景とするフランスならではの、ひねたようにも映る知的態度があり、「それは、狂信を排してつねに平衡をたもとうとするフランス精神一般の、ひとつの鋭いあらわれだということができる(若いヨーロッパ、パリ留学記、中公文庫68頁)」とフランス政府給費留学生として国立高等師範学校に1958年から3年間学んだ阿部良雄はとらえている。著者自身も「ヨーロッパに学び、その文化の根の深さに驚異を感じた者の一人として、日本にもたらされ、受け入れられているヨーロッパ文化のあり方、又その受入れ方に深い疑問を持っている者として、これから僕の歩む道というのは、人からあまり理解されないものだということを密かに覚悟している(390頁)」と記している。こうして留学早々に「帯欧」の境地に著者は達し、その後すすむべき方向まで意識しはじめていたのではないだろうか。
実際、帰国後の著者の研究は個々の神経細胞の突起を含めた三次元的なひろがりから、全脳にわたる「猫脳ゴルジ染色図譜」(1988年、岩波書店)の作成という前人未踏の高みに到達した。留学前にゴルジ染色を試みていた著者は、カハールとそのゴルジ染色標本に憧れてマドリッドのカハール研究所を訪問した。しかし、顕微鏡でカハールの標本をひと目みた途端、完成度のあまりの高さに驚愕し、ゴルジ染色標本を用いた研究を著者自身が改めて行う意義を、見失いそうになったという。しかし、著者が思い直して血のにじむような精進を重ねて完成させた業績は空前絶後の質と量で、ついに「カハールの研究を超えることができた(752頁)」のは直弟子の岩田誠が巻末の小伝に記したとおりである。音楽にも親しんでいた著者は、既に病身であったピアニスト、クララ・ハスキル女史の演奏会で深い感銘をうけた(162頁)。数年後、そのハスキルが亡くなる少し前の演奏会を阿部良雄も高等師範の友人と聴いている。その帰り「天才演奏家が血のにじむような精進を重ねて到達した境地が、公衆には本当の意味で分かるものではなく、拍手をいくらされても孤独でしかあり得ないのだとすれば、なんだって病躯をおして演奏会をやる必要があるだろう。お前はどう思う(若いヨーロッパ、パリ留学記 同上78頁)」とその友人に問いつめられたという。カハールに憧れつづけて精進し、前人未踏の境地に到達した著者はついにカハールを超えたのだが、その仕事の本当の意味を分かるには、こちらの精進が追いついていかない。それでも、著者の研究の奥に秘められている何かに憧れることくらいなら許されるのだろうか?知識以外に知恵も身に着けるようにと著者は力説されたが、その彼方に、こうした「憧れ」を人の心の奥に芽吹かせられれば、とまで意図しておられたのかもしれない。そう思い至って、ハスキルのピアノ録音を聴きながらこの滞欧日記を読み返し、新たな「憧れ」が静かに芽吹いてきそうな気配を感じている。